生命倫理 Part I

Bioethics Part I

Last updated on Wednesday 5th March 2003


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RTK 2003.02.16 Sun 10:39:54

Richard Heinberg著 橋本須美子訳
神を忘れたクローン技術の時代 "Cloning the Buddha"
原書房

激しいタイトルの本で思わず読んでしまいました(笑)。
分子生物学成立にまつわる「原罪(?)」などの話と今後の展開、
問題提起と盛りだくさんな本です。ジャーナリストがわかりやすく
書いているので、とても読みやすいです。

生命の合成の話の時にでてきた「傲慢さ」と「キリスト教」、
「古典力学」などの話がなるほど〜って感じでした。
さくっと読めるのでおすすめです。


ok 2003.02.17 Mon 00:04:12

たしかそれは、結構昔に出た本ですよね?

あのころは短絡的に、感情的にジャーリスティックに、
この本の類のようなレッテル貼りが盛んだったワケですが、
徐々にみなさん「論理の科学」の方向に進まれてきたわけです。
すなわち、とりあえず批判したり違和感を示したりしてみたものの、
その違和感を論理的に示すってこと自体の正当性(正統性?)
というかそういうのは、彼らが批判したものと非常に似ている、
ということを否定できなくなってくるんですよね。
(倫理は論理を使うのに、倫理は論理を否定する!!)

その"のどぼね"状態で出た本としては、

人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か
参考1 が有名で、長い人間性に対する考察が、
喉骨を消化できていないことを表しているような切ない本です。
ただ、喉骨に気づいている分、「神を忘れたクローン技術の時代」よりも
本質的で深い考えになっていると、多分感じられると思います。

そんなこんなでしたが、再び今の盛りはまた二極分化でして、

負の生命論―認識という名の罪
参考2 「知る」と言うこと自体が良くなくなったのだ、と言う主張を展開しています。

逆に

異議あり!生命・環境倫理学 参考3 この本は生命倫理で一般に語られているような
医療における倫理の話を知らないと読めないかもしれないですが、
非常に共通する「倫理」というものへの問を抱えていて、おもしろいです。

という風に、
『ならば「倫理」または「論理」のどちらかを殺してしまおう♪』
というお話が盛んなわけです。


ミント 2003.02.17 Mon 14:04:54

何か皆さん、「論理」というものにこだわり過ぎてませんか?
「論理」は物事を明確に理解・伝達する手段であって、
それ以上でもそれ以下でもないと、わたしは考えています。
一方の「倫理」は主観であり、価値判断の基準です。
価値判断(=倫理)を構築する際に「論理」という手段を選ぶことも出来ますし、
そうしないこともできます。
この論理を選ぶかどうかの選択は「論理」によることは(究極的には)
出来ません(これは価値判断を伴うので、「倫理」の世界の選択だと言えます)。
悲しいことにこういった初歩的な理解をしないままに、
「論理」を唱える人が多いため、本質的な議論に支障が出ることが多々あるようです。
「論理」が価値判断の理解・伝達手段に過ぎないという限界を理解していれば、
「倫理は論理を使うのに、倫理は論理を否定する」、
「『ならば「倫理」または「論理」のどちらかを殺してしまおう♪』」
なんて命題自体がナンセンスであることがわかります。
前者はおっしゃるところの「倫理」が単に「論理」的でなかっただけのことで
(一見論理的に見えたんでしょうが)、
後者は「論理」を殺すかどうかの選択が「倫理」の範疇に属するということを
見失ったがために問題にされているだけです。
実際にはもう少し複雑な問題も絡みますが、本質的なところは単純なので、
突っ込みをする前に考えて見てください。


ragus 2003.02.18 Tue 01:59:03

部外者(KKの友)ですがちょっと興味のある話題なので
確かにミントさんのおっしゃるように倫理が死ぬか、
論理が死ぬかといった話はナンセンスでしょう。

でも、倫理というものは、主観的な価値判断として片付けられるのですか?
そもそもここでいう主観とは誰の主観ですか?

こういう問いを発するのも、
僕がまだ倫理というものが何なのかが良くわかっていないからです。
もし、何か思うところがあれば、是非教えてください。

ちなみに、たまたま読んだ
林真理: ``操作される生命,'' NTT出版
という本では、倫理的な規制というものが、時代や社会要求、
技術進歩によって塗り替えられていく様子がわかります。
論文調なので読みにくいですが…


RTK 2003.02.18 Tue 08:22:57

部外者も内部もないっすよ…。学際ですから。
ウェブ上で意義のありそうな意見交換の場となればうれしいだけです。


ミント Date:2003.02.18 Tue 18:22:27

>部外者も内部もないっすよ
わたしもそう思います。

そんなわけで、ragusさんのご質問にお答えしたいと思います。

>でも、倫理というものは、主観的な価値判断として片付けられるのですか?

主観的な価値判断であるということを土台にせざるを得ないと考えています。
一つの考え方として、みんなの主観がある程度共通していれば、
その共通点を客観とみなす、ということが考えられます。
(「そもそもここでいう主観とは誰の主観ですか?」
との質問に答えたことになりますか?)

簡単なところでは、「無意味な人殺しはよくない」という命題を
「全ての人が共通に持っている価値基準」だとします。
そういう、みんなが納得できる命題を集めて、
「客観的」な倫理を作ろうとするのが今の倫理学なんだろうな、
とわたしは理解しています。

脳科学などが人間性の正体を明らかにしてくれれば、
こういう「みんなの主観は客観だ」理論は意味を持ってくるかもしれません。
でも、「何で脳科学という方法論を採るの?」とか、
「何で『みんなの主観は客観だ』理論が正しいの?」って聞かれたら、
最後は「わたしはそれが正しいと思うから」
って主観的な答えを出すしかないですよね。
その最後の一線は主観で話すしかない、っていう限界を知らないと、
みんなが幸せになるための「倫理」っていうのは作れないんじゃないかと。

先日テレビドラマを見ていて、こんなシーンがありました。
ある女性が、大学教授のところに怒鳴り込みにいくんです。
ちなみに、その女性の息子と大学教授の娘はつきあっています。
彼女はとにかく自分の息子に大学を辞めさせたい。
さらには大学教授の娘とも別れさせたい。と思っていて、教授のところにいきました。
彼女の主張は(必ずしも)筋が通っていません
(いくら母親でも息子の仕事や恋人まで選ぶ権利はありませんよね)。
それで、教授もそのことを「論理的」に説明しようとします。
それを聞いて彼女は次のような趣旨のことを言います。
屁理屈ばかり言うから、学者は嫌いなんだ。
もちろん、二人の話し合いは(少なくともこの場では)決裂しました。
(もとネタはテレビドラマ「天才柳沢教授の生活」の最終話です。)

このお話は、図らずも今の「倫理学」の問題点を浮き彫りにしているような気がします。
結局、どんなに論理をこねくり回して見せても、最後は主観に訴えないと、何の力もないと思います。
論理的でない(に間違っている)倫理も問題ありますが(だって説得力なくなっちゃいますからね)、
主観的に、そして感情的に納得できない倫理って言うのもなんの力もないでしょう?

で、わたしが言いたいことはというと、
「倫理」っていうのは、「論理的に間違っていてはならない」し、
「主観や感情と相容れないものであってもならない」ってことです。

そんな「倫理」を作るのは生やさしいことではないでしょうし、
実際に急いで作らないといけない倫理もあります(クローン人間とか)。
そんなときに、論理を振りかざして「正しさ」を主張する近年の倫理は
ちょっと無力かな、と。

まず感情の問題として、「子供が作れない夫婦にクローン赤ちゃんを
作ってあげるのって悪いの?」
って問題を議論しないといけない。
それをしないで、リスクがどうだから〜、基本的人権がどうの〜、
って理屈を言ってもクローン作りたい人は止められないだろうし、
作ろうとする行為を実際に止められなかった(作れたかどうかはともかく)。

クローン人間の失敗を真摯に受け止めて、
倫理を扱う人たちが論理一辺倒の倫理から脱却して欲しいな、
とわたしは切に願っています。

P.S.
ちなみに、わたしは「倫理学」の本とかはあんまり読まないです。
だから、今まで紹介された本の中に、
わたしと同じような主張があったらごめんなさい☆


RTK 2003.02.18 Tue 21:21:51

技術っていうのはある程度使う人間の変容を強いるもだと思います。
例えば、デジタルディバイドっていう概念が、
パーソナルコンピュータの普及、インターネットインフラの整備が
進むにつれ、結構用いられるようになりました。

おそらく、この新しい技術を使いこなせない人は、
使える人がどれだけ速く、有用な情報を手に入れられるかと
いうことを理解することは難しいと思います。
まず、コミュニケーションの領域が広がりました。
ですが電子メールが使えない人にはまったく実感できないことでしょう。

私は理学研究に興味をもっているので、工学的応用および
実用化・社会普及はもはや、あまり気にしていません。
抗癌剤が実際どのような理論的理解レベルで臨床実験に
用いられるかがわかってきたので、自分が安心できるレベルまで
社会は待ってくれないということが把握できたからです。
(統計的に有意な治療データがでれば、分子メカニズムは
どうでもいいらしい。副作用の検証などできるわけがない。
結局人体実験しかないのです)。この辺は市場のフィードバックを受けて、
安定化していないオペレーティングシステム、
ソフトウェアをインストールしたくないのと同じ心理ですね。
卑怯だと罵られても仕方ないかもしれませんが…。

生命倫理のガイドラインとかをトップダウンで、つまり
政府レベルで決定するのもいいのですが、ある程度ユーザー側も
勉強する必要があるのではないでしょうか?
実際に遺伝子組み換え食品がスーパーに並ぶようになって
くるのであれば、ある程度意識しなきゃならんのでは?
専門家レベルが必要とはいいませんけど。

議論に参加できないから、少数の専門家が決めてしまう。
意思決定を委ねる…。無責任では?自分の健康でしょ?
という考えはひどいですか?

インテレクチャルディバイドを危惧しています。


ragus 2003.02.19 Wed 01:24:44

ミントさん、わかりやすい説明をありがとうございます。

かなり根源的な意味で主観という言葉を使ったのですね。
むしろ、信奉といった意味に近いでしょうか。
われわれ(科学者)が現実に生じること以外は認めない、
と信奉することに通じるぐらい。
(ちょっと飛躍しすぎかな)

要は倫理には何を信奉(ミントさんの言う「主観的な判断基準」)
するべきかということについての
社会的合意が不十分なために、議論が錯綜しているということですね。
その結果、論理としても主観的な感情としても
脆弱なものにならざるおえなくなっているわけですか。

しかし、根源的ではない感情的な面(つまり、テレビでいう母親)との整合性は
必ずしもとる必要はないのでは?
人間の感情はいい加減なものだということは、
歴史を紐解かずともわかることだと思います。
ミントさんがよりどころとする主観的な判断
(つまり僕の言うところの信奉)というものは
何を信ずるかといった根本的な話だったはずですよね?
それが、感情といった表層的な価値判断とごちゃ混ぜになっているように思います
。 それとも僕が意味を取り違えちゃったのか…

RTKさん
>ある程度ユーザー側も勉強する必要があるのではないでしょうか?

それはそう思います。でも逆に専門家は説明責任を負うべきなのでしょう。


ok 2003.02.19 Wed 03:38:22

#何を言っているか分からない場合は無視してください。

対話する手法には大体二種類あって、客観的なものと主観的な
ものがあると思います。最近流行の「男と女」モノの中では
前者に男性が多く、後者に女性が多いとのことです。ま、経験上
そうでしょうね。

そして、ragusさんの手法というのが、多分、ずばり主観的な
対話法だと思うわけですが、科学者に論理的に対話せず、主観
的に対話するのは、つまりは論理的対話が通じないとみなすと
言うことで、相手に失礼かな、と思ってしまうわけです。
 科学者が既に信念的な合意無く広く開放されている世の中で
ありますが、歴史的に、科学という方法の価値は「主観を乗り
越える」手法だと考えられてきました。だから、科学者は
主観的対話よりも客観的対話で対話して欲しいと思ってしまう
わけで、その点どうお考えですか?

ところで、閑話休題。議題の会話に戻ります。

昔も書いたと思いますが、科学は主観を極力廃して一定の世界観を
壊すもので、倫理というのは、専ら「そのままでいく」と社会的に
合意することで、みんなが安心感を享受する仕組みであると僕も
(「も」でいいのかな?)思っています。

雑感ですが、「全ての人が共通に持っている価値基準」で
客観的でないものを言語化することは出来ないと思います。
それに焦点を当てた瞬間に「そうとは思わない」人が現れ、
そうと思わないことをそれなりに説明できると思うからです。

だから、安心と客観を兼ね備えた社会というのは、客観的に
焦点が当たった分野について徹底的に研究して、それを
応用した後の幸せな世界を提示できるような社会だと思います。
(決して、「絶対研究するな」という社会ではないと思います。)←感情逆撫で。
…もちろん、「まだ応用するな、まだかなり不確かにみえるから」
というのは真っ当だと思います。


ミント 2003.02.19 Wed 16:45:57

ragusさんが的確なご指摘をして下さるので、とても書きやすいです。

まず、

>ミントさんがよりどころとする主観的な判断(つまり僕の言うところの信奉)というものは
何を信ずるかといった根本的な話だったはずですよね?
それが、感情といった表層的な価値判断とごちゃ混ぜになっているように思います。

とのことですが、価値判断に表層的も根源的もない、
っていうのがわたしの立場です。
だから、「ごちゃ混ぜになっている」というのは、まさにその通り!なわけです。
一方で、

>人間の感情はいい加減なものだということは、歴史を紐解かずともわかることだと思います。

というご指摘も、残念なことに、全くその通りなんですよね。
わたしは、だから、感情に頼った議論(手法)が流動的であいまいなものだ、
っていうのは認めます。

その上で、そうです、その点は認めた上で、
その曖昧な感情を相手にしなければならない。
それは論理的な主張に対するのとは別の方法論が必要になってきます。

>しかし、根源的ではない感情的な面(つまり、テレビでいう母親)との整合性は必ずしもとる必要はないのでは?

という問いへの答えでもあるんですが、感情的な「主張」に従わずとも、
「感情的な面」との整合性は取る、
そういう解決策、ってあると思うんです。
論理的な議論に終始すると、そういう妥協しない折衷案(っていったらいいのかな)
が見落とされがちになります。

一例を挙げれば(これは「特命リサーチ200X」がもとネタです。
okさんの言う、最近流行の「男と女」モノ)、
恋人(okさんに従えば、きっと女の子)に
「仕事とわたし、どっちが大事なの?」
って聞かれた(きっと)男の子がいたとしますね。
論理的に答えると・・・
けんかになっちゃいます。
でも男の子が、「ごめんね。さびしい思いをさせて」って答えてくれるとどうですか?

そんな発想が出来ないといけないんじゃないかな、と思います。
こんな感じで「論理的」な説明になってますか?

okさん。これでは
>その点どうお考えですか?
への答えになってませんか?
いちおう、okさんのほうに、少し丁寧にお答えしましょう。
そもそも、感情的に話すのになれた(それが得意な)人って、
論理的に話す習慣がない場合があります。
論理的に話さないといけない、って発想自体がない、
そういう人が普通に対話するのが、科学者が相手だと失礼になるんですか?
その発想に「論理的に話さないとダメ」っていう妄信が潜んでいると思います。

さらに、科学者は科学的事実を語るためには客観的でなければならない。
それは、わたしもそう思います。
でもね、対話のときにまで客観性を要求するのはおかしいですよ。
科学者だって、人間だし、科学的知識を持った人間の主観、
っていうのも大事な情報です。
もちろん、科学者が科学者という立場で主観的な意見を話すときには、
誤解がないようにくれぐれも注意しないといけないんでしょうけど。

もう一つ、
>雑感ですが、「全ての人が共通に持っている価値基準」で
客観的でないものを言語化することは出来ないと思います。
それに焦点を当てた瞬間に「そうとは思わない」人が現れ、
そうと思わないことをそれなりに説明できると思うからです。

とおっしゃいますけど、
それでは、「『客観的に話すことが正しい』
と思わない」人は出てこないんですか?
すごい、複雑な問いだ、っていうのはわかってますけど、
どうしてもこれは逃げられない問いだと思います。
わたしもまだ答えられません。

>安心と客観を兼ね備えた社会というのは、客観的に
焦点が当たった分野について徹底的に研究して、それを
応用した後の幸せな世界を提示できるような社会

になればいいですけど、研究が終わるまで、
それを応用した後に幸せがあるのか破滅があるのか
わからないという現実もあるんですよね。
だから、「『知る』と言うこと自体が良くなくなった」
って言う発想も出てくるんでしょう?
それでも敢えて、わたしたち科学者は研究する。
それならそれで、もっと深い答えができないと・・・


仲田 2003.02.19 Wed 17:08:03

>(決して、「絶対研究するな」という社会ではないと思います。)
←感情逆撫で。
…もちろん、「まだ応用するな、まだかなり不確かにみえるから」
というのは真っ当だと思います。

どの時点で(どの程度のリスク、倫理的問題のもとで)、
どの程度の規制をかけるかの、程度の問題ではないんですか?
okさんの示した、後者の意見だって十分主観的に見えてならないんですが...
付加読み(変換ミスですが、面白いので残します)のしすぎでしょうか?
ちなみに自分は、後者の意見に(近い立場に)立って、
生命合成に慎重論を唱えるつもりです(予告どおり)。
これは今年度中に別スレッドで何とか書きたいです。


ragus 2003.02.19 Wed 21:15:17

okさん。
「主観的」な話で失礼いたしました。
しかし、残念ながら、僕には倫理という話題を「客観的」に語るに必要な基準
(データと書いたほうが通じるでしょうか?)というものを持ち合わせていません。
そのことが問題であることを話してきたつもりだったのですが…

ミントさん
>感情的な「主張」に従わずとも、「感情的な面」との整合性は取る、
そういう解決策、ってあると思うんです。

僕もあると信じたいです(否定的ですが)。これは難しいですね。
人文学者や哲学者の手を借りて、
人間の理解というものを深める必要があるように思います。

仲田さん
>どの時点で(どの程度のリスク、倫理的問題のもとで)、どの程度の規制をかけるか の、程度の問題では

確かにそういう面もあります。
とうより、法的規制をかけるという観点からは
その時々の時流の意見を取り入れられればいいわけですからそれで十分ですね。
「どの程度」をどう評価するのかという問題は残りますが。

でも、倫理的問題を語るからには、
倫理の問題を語る上で何を拠り所としていくべきなのかを
ある程度はっきりさせたいという思いもあったので、
皆さんのご意見をお聞きしたまでです。

ありがとうございました。


ok 2003.02.20 Thu 12:26:43

僕もミントさんと同じように感情や価値判断は、根元的なものも表層も区別
出来ないごちゃ混ぜのものだと思います。そして、
>感情的な「主張」に従わずとも、「感情的な面」との整合性は取る、
>そういう解決策、ってあると思うんです。
にも賛成です。ただ、どちらも「客観的に見れば」一時的なもので、結局
行き着く先はほとんど規定していないと思います。だから、客観的に
一時的な対策を話し合うことはナンセンスだし、主観的に一時的でない
社会的合意を考えることもナンセンスだと思います。(後者の方、いかがですか?)

例えば「大久保駅で転落した人を救うために2人の人が犠牲になった事件」を
考えてみましょう。
客観的に見れば、それまでにも泥酔客や身体に障害のある人がホームから
転落する事件が起こってきました。しかし、大久保駅の事件ではさらに
二人の人が、転落した人を助けようと線路に降りたことで巻き添えに
なった点で目新しかったと言えます。ただ、二人の行動は必ずしも
理性的であったとは言えず、鉄道会社はそのような事件の対策として
すでに多数の「列車非常用停止ボタン」を設置していました。
そういった意味で「落ちている人を見たときにすべき行動」というのは
すでに十分に用意されていました。が、ワイドショー的メディアは
何の「解決策」もないと「二人の英雄的行動」を無駄にしてしまうと
いう感情から、これまで何人落ちても大きく取り上げてこなかった
「泥酔客が転落することの防止策」を強調するようになりました。
強行に「電車が来たときのみ開くホームと線路の仕切り」の設置を要求する
声も聞かれましたが、これらの仕切りは、遠い昔、新幹線で起きたホームの
客が列車に引き込まれる事件の対策として一部の駅で設けられたもので、
当時の国鉄+新幹線という無責任な財政政策下で実現し得たものでした。
最近は南北線などの各駅で実現されましたが、これはワンマン運転の経費
削減とのトレードオフで設けられたものであり、一般には財政的に到底
実現不可能でした。そこで、それと引き替えに「ガス抜き」として、
キオスクで酒類の販売を自粛したり、ホームの下にもっと穴を空けたり
しました。尚、キオスクでの販売は最近再開されました。
結局変わったのはホームの下に開いた穴であり、ボタンがあることが世の
中に伝わったことで少しは泥酔客が減るかもしれません。他方で「英雄的な
行為」をする人が増え、また巻き添えになる人が出るとも限りません。
客観的な意味では、ほとんど何も変わらなかったのです。
むしろ、客観的な意味で重要な問題は最初からほとんど解決されていた、
といっても過言ではないでしょう。そして、ガス抜きがそれほど客観的な
必要はなく、拠り所を持つような一貫した対応の必要もなく、また継続的
である必要も無いのです。

仲田くん
研究と応用とを別にして、研究は規制せず、応用は客観的問題が指摘され
うるかどうかを基準として可能かを規制することのどこが主観的なのでしょう?


仲田 2003.02.21 Fri 13:20:11

研究と応用とを別にして、研究は規制せず、応用は客観的問題が指摘され
うるかどうかを基準として可能かを規制することのどこが主観的なのでしょう?

okさん、研究と応用の差を決める段階が主観的でしょう。
先に「研究と応用とを別にして」下さい。
少なくとも、研究(基礎研究?)と応用を明快に区別する定義は
okさんからは提出されていないわけですし
、我々科学者の共通認識もなさそうなので。
そこに客観的な基準がないと、規制も客観的に行えない。
okさんを始めとする科学者が主観的に線引きをする裁量が残りますから。
役所の規制に多いですよね。そんな風に一見客観的に規制対象を定義して、
適用に際して日本語の解釈のレベルから都合のいいように改変させる手口。
「←感情逆撫で」のお返しです。

敢えてこのような揚げ足取りをした理由も明らかにしておきましょう。
例えば、問題になるのは研究結果の公開です。
これは通常「応用」とは呼びませんが、当然規制対象となるべきと考えます
(ここ1〜2週間以内の学術雑誌の動きは広く報道されてますね)。
この(古典的)問題提起への回答はokさんの定義如何にかかっています。
これを主観的と評するのは十分な正当性があると考えます。


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