SFなどではお馴染のテーマですが,とうとう生物学者の挑戦が始まります。 このほど、国際的なヒトゲノムプロジェクトを出し抜いたことで有名なセレラ社の元代表、J. C. Venter 氏が、生物の合成のためにアメリカ政府の補助金を獲得したそうです(Scienceなどのオンライン・ニュースを参照)。当面は必要最小限の機能を持たせた人工染色体の合成が目標で,これをゲノムを壊した細菌細胞に入れて機能させることを考えているようです。 無論、最終的には入れ物となる細胞も合成したいのでしょうが、果たしてどうなるか。 これまでにもウイルスを再構成する実験はあったようですが、独立した生物を作った前例はありません。倫理的にも安全面からも問題はあると思いますが、成功すればクローン人間に続く偉業(?)となるかもしれません。
参考 :
大量のトランスポゾンの挿入から、必須遺伝子の最小セットを調べた論文。
Natureにもnewsが載りました(420, 350 (2002))。 しかしVenterは、悪用を避けるため、成功した場合にも方法を非公開にする予定とのことで、その方針自体が問題になっています。
このプロジェクトの面白さがわかりません。 モデル生物の合成を目的としているのかもしれませんが、 そもそも人工的に創られた生物がモデルとなりうるのか、 というのが個人的意見です。倫理的問題も、能力不足および 考察不足で提起できません。
最終的には、完全に制御下におけるタンパク質工場を作ることが念頭にあると思われます。大腸菌ですら機能未知の遺伝子が多く、遺伝子導入を行った時に何が起こるか完全には予想できていないのが現状なので. もう1つの意義は、細胞の仕組みを理解するために,今まではほとんどトップダウン式の研究(遺伝学・逆遺伝学など)しか行われてきませんでしたが、1から生物を合成できれば,ボトムアップ式の研究ができるようになると考えられます。 ただそれ以上に、「生物の合成」という大昔からのロマンにチャレンジしたいという欲求が背景にあるようにも思えますが・・・
「わかった」という状態は、例えば、操作・創作可能で且つ歴史性を把握した状態だと思いますがどうですか?
Venterを始めとする科学者の意図は、生物を「操作・創作可能」にすることと思われます。ただし,彼らは歴史性の把握には関心を持っていないようで、別にRNAワールド仮説のような生命の起源論には手を出していなかったと記憶しています。
一応 Science のニュース記事の Reference もつけときます。
ちょっと危険な発言をしてみます。 世界を知識によって支配すべき、というキリスト教的世界観の表れのように私には思われます。傲慢ですね。ヒトもひとつの生物種に過ぎず、 C. Elegans や Arabidopsis thaliana と同じゲノム構造をしているのに。
キリスト教的思想かどうかはともかく、傲慢さは感じます。 特に、News記事を読むかぎりでは、Venterらは他の宗教や倫理観との間の軋轢については議論していません。彼らは作り出した生物の危機管理を中心に論じることにより、生命倫理の問題を誤魔化しているように見えます。 また、技術が先行し,それにまつわる倫理的考察が後回しにされるようで、恐ろしい限りです。 もっとも、ヒトゲノム同様、実現しても個々人の生活にはほとんど影響がないというのも、また事実なのでしょうが。
「傲慢」というのは「思い上がった態度」とか、「身の程を知らない」とか、、、というようなことですよね?で、「人間は生物だから生物をつくってはいけない」…んですか?なんだか、そういう序列にこそ、「神」の存在を感じてしまいますが。 倫理の問題は、工業化という大衆化のプロセス・手法と、一般への技術の理解の浸透具合、利己的企業と全体利益の対立という3点に関わる問題だと思います。文化人類学などの諸研究によって、慣習とか宗教というもののが、作られた当時はある程度合理的な戒律であったことが示されています。しかし、時代が経つにつれて戒律が色あせてきたときどうするのかが書いていないことが大きな欠点なわけです。これは結局、地域地域の文化圏内において、一般の人に技術を理解してもらい、何らかの新たなコンセンサスを形成する以外にはないのではないでしょうか? というか、今回の問題は、当面カトリックキリスト教系でしか問題にならないのではないかな…と思うのですが、違うのですか?大変なことですか?
okさんの投稿の論点は
> 「思い上がった態度」とか、「身の程を知らない」とか
は
> 当面カトリックキリスト教系でしか問題にならないのではないかな
ということで、理由は
> 時代が経つにつれて戒律が色あせてきたとき
> どうするのかが書いていない
からだと解釈しました。まちがっていたら訂正してください。
この論理に従うと、私はキリスト教文化圏の存在と言うことになりますね。つまり
> 「神」の存在を感じてしまいます
ということです。あくまである例外のひとつに過ぎませんが、私はキリスト教の信者ではありません。
ここで述べたいことは、生物を人工合成するということの倫理的是非です。例えば傲慢と感じるひともいるでしょうし、また特別視しないひともいるでしょう。スタンスはさまざまだと思います。ただ、いろいろな立場のひとが状況について意見を述べ合う必要は感じます。前に Xenotransplantation で生じたスレッドのように。
その気になれば、全てのことについて「傲慢だ」と感じることができる、と思います。また、例えばメディアの伝え方一つで、感じる人を量産することも可能でしょう。(不幸なことに、意見を持たない多くの人は最初にきいた意見やスローガンに流されがちですが。)
「傲慢だ」という気持ちについて、意見を聞くだけでいいのでしょうか?(具体的な議論にならないと意味がないでしょう。)全てを相手にしていて良いのでしょうか?(僕は少なくとも、主題の言葉尻だけでなくて言い換えられる形で、客観的、あるいは文化的な論拠に基づいて「危惧感」が表明されることが必要だと思います。) 逆に、世界のどこかで起こっている「傲慢だ」と感じられる物事全てに異論を唱え続け、傲慢でない状態にすることは必要でしょうか?(僕は、地域地域の文化圏内でコンセンサスを形成できれば、それで精一杯だと思います。また、広く社会的なコンセンサスを形成できなくても、P4的「隔離」と実用化への制限が科せられて、事実上「文化圏を隔てる」折衷案が通っていくことでしょう。)いずれにしろ、「傲慢さ」について、取捨選択する/「意見」たり得るメルクマールが必要だと思うのです。 さて、生物の合成は、議論するに値する程度に傲慢のレベルが高い(?)のでしょうか? 信者云々という個人レベルでなく文化圏として、有益な議論が期待できるほどのことなのでしょうか?
他方、「神」の前提下で論理的に議論することが可能か、そしてそれらは有益か?、と言うこともこの問題と関わって来ると思うのですが、これは進化論に慣れた生物系で議論したくないなぁ…。(僕の結論だけ書くと、「精神安定剤にはなる」。)
> 主題の言葉尻だけでなくて言い換えられる形で、
> 客観的、あるいは文化的な論拠に基づいて
> 「危惧感」が表明されることが必要だと思います。
これは本当に望ましい状態でしょう。
ですが、分子生物学の倫理に抵触する領域では感情を励起し、
理性的な議論ができなくなる可能性が常に付き纏います。
> 広く社会的なコンセンサスを形成できなくても、
> P4的「隔離」と実用化への制限が科せられて、
> 事実上「文化圏を隔てる」折衷案が通っていくことでしょう。
この状況がたとえ本当に進行しているとしても、異を唱える側に
回りたいです。理由は科学がもはや社会との関係から離れることが
できないからです。理学での発見が応用され、社会へフィードバック
されるまでのスピードがあまりにも早いため、進歩状況を
透明化することは必須だと思います。だからこそ、優秀な
科学ジャーナリストが求められるわけですが…。
> 「神」の前提下で論理的に議論することが可能か
せざるを得なくなるでしょう。いつか近いうちに。
>分子生物学の倫理に抵触する領域では感情を励起し、
>理性的な議論ができなくなる可能性が常に付き纏います。
かなり争点が集約されてきているように思います。
>理由は科学がもはや社会との関係から離れることが
>できないからです。
>理学での発見が応用され、社会へフィードバック
>されるまでのスピードがあまりにも早いため、進歩状況を
>透明化することは必須だと思います。だからこそ、優秀な
>科学ジャーナリストが求められるわけですが…。
「もはや」と仰いますが、昔はもっとみんながついて行けていた… のでしょうか?はたまた、知っていれば知っているだけ良いことなので しょうか…。 「変化しているから」「フィードバックされるから」「関わりが深い から」と言うのが、「当然みんな知っている」状態とならない社会は とうに始まっています。「点滅する赤信号」だって意外とみんな知り ません。 もちろん、「わかりやすい」情報が提供されることは目標として 大切なことだと思います。が、人間が注目できる内容は限られている わけで、深く考える所(コンセンサス形成への一歩)まで行く人を 多くできるか、が非常に難しいと思います。 (例えば、「遺伝子組み換え食品の是非」を相手が考えるところまで 「わかりやすく」伝える、、というのは非常に難しい気がします。)
きっと「何が重要か」は誰かが取捨選択するのでしょう。
>> 「神」の前提下で論理的に議論することが可能か
>せざるを得なくなるでしょう。いつか近いうちに。
せざるを得ないというよりは、今までも、現在でも、そしてこれからも 論理的な振りをしたこのような議論が行われていると思うのですが、 いかほどの意味があるのか僕にはよく分かりません。 一見論理的な言葉を聞くと心が安らぐ効果は、近いうちに発見されるかも 知れないと思っています。
このスレッドを見返していて、okさんのコメント中に意味のわからない語句が多いので,解説してください.
okさんの書き込み中には、文系(?)の専門用語と思しき語が多く,意味が通じにくいので、今後注意して欲しいんですが・・・
4.「点滅する赤信号」って何ですか?
質問とは別に、自分の意見も書かせていただきます.
まず、「傲慢」という言葉は自分も使いましたが、okさんによって曲解されてしまったことを指摘しておきます.柿原さんと完全に同じ意味ではありませんが,「傲慢」といったときに、「『思い上がった態度』とか、『身の程を知らない』」という意味以外(「身の程を知らない」という意味は、ぼくは,込めていません)に、「他者に対する配慮を欠いた」とか「価値観が自己中心的過ぎる」といった意味を込めて書き込みました。 Venter は、(Science の記事に寄れば)生命倫理の問題を考察する際に、生物合成の危険性についてのみ議論し、問題はほぼ解決されたとみなしているようです。 倫理には宗教的な問題や各人の価値観も当然絡んで来るはずにもかかわらず,それに関する議論は Nature 誌上でも Science 誌上でも見られませんでした。そのような状態で生命倫理の問題は済んだ事にしてしまうのはあまりにも独断専行だと考えます。これは、潜在的な批判者への配慮を著しく欠いた「傲慢」な態度といえるでしょう。
次に、okさんは「地域地域の文化圏内において、一般の人に技術を理解してもら」うことが必要であり、それで十分と考えていらっしゃるようですが,Venterにはそれすらできていないことを問題視しているんですよ. 地域地域の文化圏とおっしゃいますけど,「Venterが生物を合成する」という報道は日本の新聞紙上でも紹介されています.このことは、日本も「人工生物」についての問題を共有する文化圏であることを意味します.そして日本では明らかに「一般の人に技術を理解してもら」っていません。これは、Venter のアイデアを事前に知っていながら、議論する場を設けてこなかった日本の研究者やメディアの責任でもあるでしょう(これは確かに Venter 個人の責任とまでは言えないでしょう). おそらく、日本の研究者が「当面カトリックキリスト教系でしか問題にならないのではないか」とか「生物の合成は、議論するに値する程度に傲慢のレベルが高」くはなく、「文化圏として、有益な議論が期待できるほどのこと」ではない、と考えたであろうことは想像に難くありません(メディアのほうはその実現性を実感できていなかったといった所でしょう)。 しかし、そもそも Venter と同じ職種に属した、明らかに「一般」とは異なる感覚を持った研究者達が、どうして一般で「問題にならない」なんて決めつけられるんですか? その勝手な決めつけ、言い換えれば独断が今までもトラブルを引き起こして来たんですよ. 記憶に新しい所では、クローンの問題や遺伝子組み換え技術の問題があります。いずれも一般のコンセンサスに技術が先行し、混乱や誤解を招いたではありませんか。結局は一定の解決に辿り着いたとしても、それまでの間、流通や技術開発の現場で多くの無駄が生じています。 今回の「生物合成」についても、実用化の段階で同様の混乱が起きる可能性は十分にあると思います.それを未然に防ぐまでのことはできないにしても、(せめてこの掲示板を見ている人の間で)問題意識を共有しようとする議論は無意味ではないはずです。
今,「『生物合成』についても、実用化の段階で同様の混乱が起きる可能性は十分にある」と書きましたが,okさんはそのことについても否定的なようなので,補足しておく必要があるでしょう。 日本を含めた非「カトリックキリスト教」文化圏においても、生物を人間の手で合成することに関しては、恐れや懸念が表明されてきています。ゴーレム、フランケンシュタイン(のモンスター)、あるいは近代日本では手塚治虫さんなどによる多くの SF が思い出されます。「ドラえもん」のように楽観的な表現ももちろんありますが、「作られた命」の織り成す悲劇を描いた作品の数(そして質)は無視できないものがあります。これは一般の人間の持つ潜在的な恐れや嫌悪感を表明したものととらえられませんか?(上記の芸術作品たちが一般の意識を強めた側面もあるとしても。) そして、これほど多くの(と自分は考えます)文学作品などによって問題視されてきたテーマを議論する必要がないはずがない、というのが自分の結論です。
ついでに述べておくと、いくら議論しても、「生物合成」の実現を妨げる結果にはならないとは思います。それでも、議論の過程で「生物合成」に関する指針が形づくられる可能性はあります。さらに、「生物合成」以降の技術開発に対して議論の足場を提供する意義もあると考えます。 そして、この掲示板と、これを見ている人のもつ影響力はまだまだ限られていますが,将来誰かが技術開発の最先端に立ったときのためのケーススタディとしても、「生物合成」について議論する意味はあり、あったと思います。
>生理的嫌悪に理由はあるのでしょうか?
明らかにあります。僕の勉強してきた心理的疾患から考えると、(論理的な思考で強化学習された)生理的な反応こそが、早期に誘起される「思考」の大部分なのではないか、と思えるほどです。人間は次なる自己・他者の学びのためにそれらを論理化する必要があると思います。
>1.「P4的『隔離』」って何ですか?
http://rtcweb.rtc.riken.go.jp/DNA/sec/q4.html
仲田君の論旨で行くと
http://homepage2.nifty.com/sisibata/
の「バイオハザートって何」の項とかどうでしょう。
>2.「『傲慢さ』について、取捨選択する/『意見』たり得るメルクマールが必要」中の「メルクマール」って何ですか?
http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/dict_search.cgi?MT=%A5%E1%A5%EB%A5%AF%A5%DE%A1%BC%A5%EB&sw=2
小川が2つに分かれる位置の目印の事を言います。google検索をかけると色々な人が注釈無く使っている語だと確認できます。大きいいい方だと分水嶺なんかも使いますよね。
>3.「文化圏」ってどういう意味で使ってます?例えばアメリカと日本は同一文化圏ですか?生物学研究者と専業主婦は?
文化圏は注目する文化を共有している集まりの事を指すのでしょう。すると少なくとも断定的に決まっているものではなくて、隔たれたりくっついたりするものでしょうね。
>4.「点滅する赤信号」って何ですか?
赤色の灯火の点滅
「信号の意味」は小学一年生で教えることになっているらしいのですが、免許を持っている人にも知らない人がいてびっくりしてしまいます。
仲田君のDate:2002.12.12 Thu 19:02:57に対するレス。
前半部は今までの議論の繰り返しですね。争点も見えてきたところで原点に戻ってしまうようで勿体ないので、反復してきた意見は上を読んで下さい。新たなコアな意見を書けば、「倫理問題」が出てきたとき「倫理」というものは、NatureやScienceやVenterが議論するものでなく、むしろ(論理的では語らえない部分の)「倫理」が磨きなおされるものなのかもしれません。
>okさんは「地域地域の文化圏内において、一般の人に技術を理解してもら」うことが必要であり、それで十分と考えていらっしゃるようですが,Venterにはそれすらできていないことを問題視しているんですよ.
引用元を読んでいただければ分かりますが、「必要」とか「それで十分」なんて微塵も書いていません。「それで精一杯」と書きました。到達してもそこ止まりだろう。「目標」にするならそこくらいかな、ということです。
後半部は少し議論できる倫理問題が含まれていますね。
>「『生物合成』についても、実用化の段階で同様の混乱が起きる可能性は十分にある」
の例の所ですね。
どんな「実用化」を考えているのかよく分かりませんが、みんな「動物様」の人造生物が例に挙がっているのが気になります。仲田君をはじめこの掲示板の皆様は大腸菌も酵母も木も動物も「生命」と考えているかも知れませんが、一般には無意識的に「生命」とは、「自己投影できるような」(=知的な?)動物(様のもの)のことを意味しています。だから「普通の人」の感情は励起しないかも知れません。動物様でない生命創造の危機感を示した文学作品などもあるのですか?
「動物様の生命」を作って人権がどうのと言い出すのならば、もっと積極的に議論しないと行けないでしょうね。実際的な問題が容易に想像できますから。
okさん、用語の解説ありがとうございます。 1.2.に関しては大体わかりました。 3についてですが、「地域地域の文化圏内でコンセンサスを形成できれば、それで精一杯」あるいは、「事実上『文化圏を隔てる』折衷案が通っていくことでしょう 」とおっしゃっていますが、今回の(生物合成の)問題についてはどの範囲の「文化圏」を念頭に置いてのことなのかを、もう少し具体的に説明していただけませんか? 4については、質問の仕方が悪かったようなので、改めて質問させていただきます。 「点滅する赤信号」ってどういう場所で見かけるんですか?あと、いっぱい見かけるんですか?
なんだか険悪になってきそうなので、フォローしときます。自分としては、okさんの人格を否定したり、中傷するつもりはないので、もしそうなっている点があったなら謝罪します。 とくに、今回はこちらの方でokさんの意見を曲解した点があったようなので(「okさんは『地域地域の文化圏内において〜』〜」)。 ただ、こちらなぜ上記のような解釈をしたのかについてはご理解いただきたく思います。生命倫理の問題を考えるということは、何をなす必要があり、どこまですれば十分なのか、ということを明らかにするということだと思っていました。そう考えれば、「精一杯」という言葉を、なぜ仲田が「必要十分」という主旨の表現に置き換えたのかご理解いただけるのではないでしょうか。 なお、どうしても納得できないのですが、「必要十分」でない(特に、「十分でない」)「目標」というのは意味があるんですか?「目標」という言葉の解釈が誤解の原因とは思うんですが。
特に険悪だと思っていません。研究室ではみなしごとしていじめられていますし。:(
万一、社会的な合意が得られなければ、科学者で隔離施設を持つものだけが扱えるものとして(という「文化圏」に限定された上で)許可されるでしょう。なぜなら、どう実用化するのか知りませんが、実用化したとして、今のところ、遺伝子組み換え食品以上に安全性への疑問を示すことができないからです。
仲田君が「生命倫理」として挙げたクローンと遺伝子組み換えですが、共に安全性が重要な問題として議論されており、クローンでは「生命倫理」である「クローン人間は誰の子か?」「人権は保護されるのか?」といったような人間存在あるいは知的な存在に関わる問題が摺り合わせられました。 しかし、「他の宗教や倫理観との間の軋轢」や「宗教的な問題や各人の価値観」は結局「議論」されていません。それらは非常に「議論」しにくいのです。もし、それらを「議論」しようとするのならば、それこそ、「傲慢」という言葉や、「なぜ」(他のあらゆる事にも増して)良くないと思うのかを説明しないといけないのです。(ちなみに僕はそれが不可能ではないと思ってこの議論に参加し続けています。)
>「点滅する赤信号」
交通量の少ない通りにあるとおもいます。夜間にだけそうなるとか。生活圏に一つあれば「よく見かける」し、そうでなければ「あまり見かけない」ことになるのかも知れません。
じゃあ、もう一つ、知っていて良さそうなのに知らない例を。昔、免許を取った人(含・タクシー運転手)に、標識がない道路の制限速度をきくと、大抵の人は知りません。
>「必要十分」でない(特に、「十分でない」)「目標」
「人権」とかもそうじゃないですか?
必要だの十分だの判断する主体がたくさんあれば、なんでもそうなります。
生活圏にないものを知らないのを「意外」といわれても困ります。 それを「『変化しているから』『フィードバックされるから』『関わりが深いから』と言うのが、『当然みんな知っている』状態とならない社会はとうに始まっています。『点滅する赤信号』だって意外とみんな知りません」という文脈上に使うのは不適切でしょう? まあ、本筋ではないので良いですけど(何か知らないのを非難されてたり、小馬鹿にされてるように読めたんですよ)。
「『人権』とかもそうじゃないですか?必要だの十分だの判断する主体がたくさんあれば、なんでもそうなります」
って、そういう問題ではないでしょう。
自分が指摘しているのは、okさんは確かに「『必要』とか『それで十分』なんて微塵も書いていません」と、自然に読めば「『必要』とか『それで十分』なんて思っていない」と解釈できる文章を書き込んでいるにも関わらず、そんな「十分」と思ってもいないような「目標」を提示していることです。そして、それは理解できない(言ってしまえば「不適切」)だと言ったつもりです。(なぜならそれは過小な「目標」の設定であり、努力をそぐものだからです)
問題は、okさんという1個の主体の考えと、その設定する「目標」にギャップがあるということで、「主体がたくさんあ」る場合はこの際関係ありません。
>前半部は今までの議論の繰り返しですね。
>どんな「実用化」を考えているのかよく分かりませんが、みんな「動物様」の人造生物が例に挙がっているのが気になります。
>仲田君が「生命倫理」として挙げたクローンと遺伝子組み換えですが、共に安全性が重要な問題として議論されており、クローンでは「生命倫理」である「クローン人間は誰の子か?」「人権は保護されるのか?」といったような人間存在あるいは知的な存在に関わる問題が摺り合わせられました。
主にこの三点については、異論があるので、考えがまとまるまでしばらくお待ちください。
あっ、ちなみに「それで十分」と思っていないだけで、個人的には十分すぎると思っています。
分かりやすく書ければと思います。
まず、僕は「倫理」というのがもっと話合い甲斐のある、実際的な問題をはらんだ、さらに言えば単なる感じ方ではないような諸問題について、(感じるのではなく)考えるものだと思っていたからです。
例えば、作った「生命体」が他の生物と同じように拡散でもすれば、様々な実際的な危惧が生まれるでしょう。だからとりあえず隔離する必要はあると思います。そういうことを考えるのには意味があると思います。
しかし、僕は宗教や各人の感じ方を聞くことには意味がないのではないか、と考えています。
例えば、
http://www.ava-net.net/
http://www.alive-net.net/
のようなところもあります。(少し別件ですが、やっぱり生命=動物ですね…。) 下のほうのページを見ると、最終的に生命の設計図を手にしたことや、生命を研究対象にすること自体、悪だ、というところのようです。
僕たちはこういう意見にも真摯に受け止めるべきなのでしょうか。何度もこういう意見を聞く必要があるのでしょうか?
僕の中では、あぁ、またか、という気持ちになってきています。そして、社会に後ろ指をさされないように、未来の雰囲気作りに何らかの努力をしつつも、現在あるそれらの「感じ方」について(これ以上)聞く必要はないと思っています。(知っているし、それを乗り越えると考えている答えもあるから。)
だから、この、生物を研究するゼミの掲示板で、「聞く必要あり」という話になるのはかなり信じられなかったのです。人の感じ方なんて、ネガティブからポジティブまで容易に想像がつくことではありませんか。 どうして傲慢にも生物を研究したりするのでしょう?どうして研究に荷担するのですか?どうして傲慢にも生物を作ったりするのでしょう?どうして研究という行為をするのでしょう?
研究者がこれに答えられれば、あとは危険性の問題だけではないのですか?
okさんの意見は非常に現実的だと思います。 「目下の状況に対応する」という意味合いにおいてです。
私が倫理ということばに込める意味合いは 「a prioriに各状況下で是非の決定が一意的にできること」です。 現在の倫理についての議論は個別対応に終始し、 形而上での理論構成が遅れていると感じています。
「危険性についての考慮」というのは、 既に理論・技術を是認した上でのみ議論されている気がします。
否定的な意見に対し、自分の中でのみ解答を与えているからといって、 無視することは容認されるでしょうか。
さらに、「なぜ研究するか」という問いはそれ自体が研究対象となっています。 私も最終的にこの領域を専門とするつもりですが、 それはさておき、okさんはどのレベルでこの問いを設定なさいましたか? 学問領域への貢献(研究の意義)ではないですよね。 「面白いから」のなぜかということの解明を待っているわけには いきませんし、遺伝子レベルでこのことに解答が与えられたからといって、 倫理学を危機管理にすり替えることはできません。
で、やっと今まで僕がしてきた、上の議論になるわけです。
>「a prioriに各状況下で是非の決定が一意的にできること」
>形而上での理論構成
…非常に古典的な議論な気がします。 各状況には時間とかは含まれないのですか? 「状況」や「一意的」に関する感覚の安定性にも自信がある、ということですか? 僕は「論理的であること」や「体系的であること」はとてももろいもののように感じていますが…。
ま、そういう点を置いておいたとして、だとすると、 「〜すべきではない」という非難に対してどのような 対応を一意的にするのでしょうか。検討中、と言うことですか?
>「危険性についての考慮」というのは、
>既に理論・技術を是認した上でのみ議論されている気がします。
>
>否定的な意見に対し、自分の中でのみ解答を与えているからといって、
>無視することは容認されるでしょうか。
2つの問いかけは、どこかしら似ていると思います。
しかし、まずは下の問いかけについて、細かい反論から。 肯定的であっても、これ以上聞く必要のないことを聞く必要はないと考えます。また、「無視する」という言葉には、相手から問われても相手に説明してあげない、という意味が含まれているような気もしますが、そうでもありません。聞かれれば答えます。対話します。ただ、もはや意味がないから聞きたくないだけです。
どちらの問も、「誰が」容認するか、というのが大きな問題である気がします。 論理的だからと言って、それは普遍的な正しさを保証するものではありません。ハイゼンベルクしかり、論理的な考察は論理的に考察すること自身を正しいと示すことはできません。 では、どのようにすれば、うまくいくのでしょうか? 「神様の視点」で考えるのはとりあえず放棄して、対話、すなわち二人で語り合うことを基本にすべきだと思います。その際、もちろん、「あやしい」理論は、「あやしい」として語らなければいけないでしょうね。 でも、意外と、現実に起こっていることや、繰り返し実験して同じ結果が出ればもう一度同じ結果が出ることを認めるとすると、有益な議論になると思います。
>okさんはどのレベルでこの問いを設定なさいましたか?
すでに何度も述べているのですが、「論理的な」答えを求めるのならば、「どうして研究するのか」よりも「どうして研究してはいけないのか」という問を否定した後に、数ある行動(の名称)の一つとして研究を持ち出すのが楽かと思います。研究している状態、だと名付けるのも特殊な認知能力ですから、それで十分だ、と思います。はじめの方でも書きましたが、文化人類学や神経心理学は人間が普遍的に納得(個人的な辻褄合わせ)を求めていることを既に明らかにしています。論理というのは多分にそのドグマの上にのった行為だと思います。ですから結局、自己言及になるでしょう。
「論理」にかわる「普遍性」を求めていくべきだと思います。(論理の論理)
…ポイントは階層性、かな。
「〜すべきではない」という意見に対し一般的にどう解を与えるかに関してですが、 手続きとして是非を演繹的に導くことが可能ならば、その手法の妥当性の 吟味のみが問題となるはずです。対立意見のベースとなるアイディアに対しても その根拠を要求することができるでしょう。完全な解ではありませんが…。
パラメータとしての時間を考えている系の中で特殊な存在とみなす理由は ありません。当然「時間とか」も考慮内です。おそらく時代変遷にともなう 感覚の変動への対応を示唆しているのでしょうが、A priori ならば 普遍的に論理的です。
「文化人類学や神経心理学」における「普遍的な納得」を追求する方法論と 「古典的」と表現なさった、「もろい」体系的かつ論理的な 倫理学的手法への理解との差異を示していただきたい。
私の力不足のせいか、okさんの意見には論理的整合性が欠損している気がします。
>「どうして研究するのか」よりも「どうして研究してはいけないのか」という問を
> 否定した後に、数ある行動(の名称)の一つとして研究を持ち出す
「どうして研究しないのか」が「どうして研究するのか」の逆だと思うのですが。 なぜ善悪の議論を持ち出すことになるのでしょう。それこそ、この善悪の基準は だれが「容認」するのか、ということが鍵となります。
「自己言及的」であることを認めている、あるいはそのことが 避けられないと書いているようです。そのことについて「論理の論理」という文脈で 「階層性」がポイントとありますが、「論理」に「普遍性」が代わることが 求められることと「階層性」の関係を説明してください。
眠いとき文書いちゃいかんね。(学校で実験しながら書いたもので。) ゲーデルです、たぶん。
前半部の問いかけについては、「演繹万能主義」から脱し切れていないのでしょう。みかんとりんごについて、みかんはいいがりんごはだめ、って話をしているのに、みかんもりんごも同じ果物だから…と知らない内に読みかえると確かに、果物はいいけど果物はいい?、となって訳が分からなくなるのだと思います。どう書くと波長が合わせられるんでしょうね。
演繹的/a prioriに導いたこと自体は正しいとは限らないし、宗教であることも否定しない。 ってのはどうですか?知ってますか?
宗教を科学に変えるためには
>対立意見のベースとなるアイディアに対してもその根拠を要求することができるでしょう。
なる、「対話」の機能が重要になると思います。
しかし、これは同じ科学にいる人の間でしかうまくいきません。中には(演繹的なだけでは)かみ合わないことがあります。かみ合わないとa prioriか否かも判断できませんね。(例・マイナスイオン)
演繹的だと思って語っている場合でも、相手には演繹的に思えないことがあります。または、一つの点に関しては一見演繹的でも、他の多くの正しさとの関係から正しくない、と思えることもあります。用語や注目点、体系などについて何らかの異なる背景を抱えているからでしょう。
これを打破する方法には以下のような方法が考えられます。
ひとつは経験的な知識を増産すること。(a posterioriであることも目指すという意味です。) もう一つは要素に分割しがたいrootを考えだすことです。
詳細は考えてみて下さい。
>「どうして研究しないのか」が「どうして研究するのか」の逆だと思うのですが。
論理的にね。
でもどうして研究しないか、と問えば現実として今も昔も研究してる(と思っている)わけだから、それだけで答えが出ちゃうね。歴史的に。それだけだと単なる演繹的回答だね。
すると問題は、「研究している」と認知している状態とは何か、「どうして研究すると問立てるのか」になると思うんだけどどうだろう…。
なんだか非常に簡単な初学者向けの科学論の本を一冊、演繹的な正しさを追うだけでなくて、問題提起の妥当性も勘案して読んでいただいた方が早いかと思います。具体例も豊富ですし。 階層性の話については、まだ「教科書的」ではない話なので、とりあえずそちらからお願いしたい、と。
波長はゆっくり合わせていくものですよ。 いつか同期する時期があるはずです。「うなり」という形で。
> みかんとりんご
その差異が見えない人に、皮肉を浴びせるだけで具体的に説明する努力を
怠るのは、きっと私が不勉強なようにokさんには映るからですしょうね。
演繹的手法について、その妥当性を議論すべきと記述しました。 イギリス経験主義と要素還元を排除した演繹主義に傾倒しているつもりは あまりないのですが、ただひとつの方程式というのはあまりにも 魅力的なんです。科学に従事する私の一側面にとっては。
階層性については後述します。
okさん、何か勘違いなさっているようですね. 仲田にしても、文章を読む限りはlorkさんにしても、okさんに「倫理学」の講義をお願いしているつもりは毛頭ありません。 仲田としては,現在の「倫理学」のあり方すら含めて議論を提唱していますし、lorkさんもおそらく同様であると読めます。それを「非常に簡単な初学者向けの科学論の本」から読めとは、勘違い、および失礼にも程があります.表現方法にしても,具体的な科学論の本を紹介するのならともかく,わざわざ「非常に簡単な」とまで修飾語をつけるのは、lorkさんに対する侮辱であり,okさんは謝罪すべきです。 仮に、あなたが皮肉や侮辱を意図していなくとも,そう読めるような表現を使ったことはあなたの落ち度です.幸い、lorkさんは掲示板上では怒っていないようですが、これまでのところlorkさんと同様の主張をしている身としては、あなたの表現はきわめて不愉快に感じます. 今後、書き込みをする場合,ご自分の表現が皮肉に聞こえないかどうか、よく精査してから投稿するように、強くお願いいたします。
lorkさんの書かれることが(少なくとも僕の知っている限りでは)「倫理学」ではなく、古典的な「哲学」に関する教科書みたいに感じられたので、「科学論」の本をお薦めしました。「科学」が今ほど積み上げられていなかった時代の「哲学」はより思弁的で、今の時代とは異なったコンテクストを抱えている気がしますので。 さらに「非常に簡単な初学者向けの」を付けたのは、lorkさんの主張には難解な多義語が多いように感じたためです。高校などの教科書は各々の主張に断定的なレッテルとして特定の用語を貼っていることも多いのですが、実際に読んでみるとたくさんの思想家達が違う意味で使っている多義語があります。論理構成だけでなく、時代背景と話者がその状況、コンテクストでどのように考えたか、が大切なはずなのに、高校の教科書や偏って古典を読むと用語に引きずられがちです。最近は「やさしい」本というと、「気持ち」が中心になっていますので良いのではないか、と考えました。
>okさんに「倫理学」の講義をお願いしているつもりは毛頭ありません。
>仲田としては,現在の「倫理学」のあり方すら含めて議論を提唱していますし
仲田くんとlorkさんとが同様の主張だとは読めない点がいくつもあるような気がしますが(僕としては少なくとも全く対応を分けていますが)、とりあえずそこは置いておきましょう。 僕もlorkさんに「倫理学」の講義をしようなどと思ってはおらず、ただ、仰っていることが非常に古典的な「哲学」の議論そのままのような気がしたので、それなら「現在の」本を読んでいただくのが一番だと思ったわけです。 それにしても、対話相手以外に感傷的になられると困ってしまいますね。「日テレは嫌い、最悪」と言ったら、巨人ファンに殴られた感じなのでしょうか。「自我」の範囲というのは深淵で面白いですね。
>あなたが皮肉や侮辱を意図していなくとも,そう読めるような表現を使ったことはあなたの落ち度です.
>今後、書き込みをする場合,ご自分の表現が皮肉に聞こえないかどうか、よく精査してから投稿するように、強くお願いいたします。
…この前は、僕の「なんだか、そういう序列にこそ、「神」の存在を感じてしまいますが。」と言う書き込みが皮肉っぽいと仰っておられたのですが、その時も、結構、うーん、と思ったんですけどね。 自分の主義主張に対する反論って、受け取る側の気持ち次第でいつでも侮辱されたような気分になりえる気がします。あんまり気づいてなかった点だったり、相手が嫌いだったり、気持ちがこりかたまっていたりすると特に。そんなに悪いことでしょうか。 まぁ、これが単なる中傷や言いがかりなら別で、これは個別的に理由を問えばいいわけです。そして、理由がない非難は慎むべきだと思いますが。
僕は結構気楽に興味の赴くまま、思ったことを書いている感じなので、自分を背負っていないんでしょうかね。痛みの感覚が共有できていません。すいません。
>皮肉を浴びせるだけで具体的に説明する努力を怠るのは、
うーん。その後の文が全部説明なのですが…。文章力が無くてすいません。
とりあえず、具体例の動物愛護団体と生物の合成への非難の違いというか、どう対応していくのかが聞きたいかも…、って感じです。
>それにしても、対話相手以外に感傷的になられると困ってしまいますね。「日テレは嫌い、最悪」と言ったら、巨人ファンに殴られた感じなのでしょうか。「自我」の範囲というのは深淵で面白いですね。
これも、読みようによっては皮肉ですよ。まあ、抗議(議論ではなく)が感傷的になったのは恥じていませんけど。それと、別にこれは「深淵」な現象ではなく、単なる「感情移入」という奴です。「対話相手」以外の読み手がいるのは知ってのことでしょう?
ついでに、仲田に対する文章でも相当不愉快なのはありましたよ。もっと感情的になりそうだったので、あえて引用してないだけですから。ご要望があれば、口頭でも掲示板上でも引用しますよ。
>そんなに悪いことでしょうか。
う〜ん、それは結果次第でしょう。実際、仲田はokさんの文章を読みかえしていると、本筋以外のところで腹が立ってきます。んで、表現に気を付けるようお願いした後ですからね・・・ それはやっぱり・・・
でも、
>痛みの感覚が共有できていません。すいません。
わかっていただければいいです。こっちもokさんの気持ちを理解できないところもあると思うので、そういうときは指摘してもらえるとありがたいです。
>とりあえず、具体例の動物愛護団体と生物の合成への非難の違いというか、どう対応していくのかが聞きたいかも…、って感じです。
近いうちに何とか考えを文章化したいと思っています。しかし、誤解を恐れず簡単に言うと、両方の非難にさしたる違いはないだろうと思ってます。ただ、意見を聞くべきか、というところでokさんとは意見が対立するのでしょう。仲田としては、これらの(感情的な?)意見に従う必要はないが、聞く必要はあると思っています。
あと、「どう対応していくのか」についてはぼんやりとした考えしかもてていないので、あえて問題提起して、他の人の意見も聞きたかったところです。なので、頭ごなしに「(感情的な意見は)聞く意味がない」という主旨のことを言われても理解できないので、その根拠をもう少し説明して欲しいと思います。
以前(12月16日17:01)に予告した3点について議論します。
まず1点目、 仲田 Date:2002.12.12 Thu 19:02:57に対するレスの中で、okさんが
>前半部は今までの議論の繰り返しですね。
と言及した件についてです。okさんがその後(ok Date:2002.12.19 Thu 22:17:12)論点を要約してくださったおかげで、大分書きやすくなりました。
そもそもokさんは「『倫理』というのがもっと話合い甲斐のある、実際的な問題をはらんだ、さらに言えば単なる感じ方ではないような諸問題について、(感じるのではなく)考えるものだと思っていた」とのことですが、仲田としては、倫理についてもっと別の捉え方をしています。仲田にとっては「自分とは主義主張立場の相容れない人たちとの意見の刷り合わせ」も倫理の重要な課題のひとつと考えています。そこで生命倫理に関しても、同じ課題が考察されるべきだと主張したいと思います。
ところで、ここから先、『』で括られた単語を多用することになると思います。これらの単語は、この書き込みの最後で定義しますので、適時参照してください。『』をあえて用いるのは、言葉をより限定的かつ特殊な意味で使いたいためで、教科書的な意味とは異なる用法もあります。これらの単語は、この掲示板上でのみ使用されることを目的とした造語とでも思ってください。
okさんは例えば、「生命を研究対象にすること自体、悪だ」などの考えは真摯に受け止める必要も、聞く必要もない、と考えているようです( ok Date:2002.12.19 Thu 22:17:12)。「生命を研究対象にすること自体、悪だ」などの『主義』は、確かにokさんをはじめとする多くの研究者の『主義』とは相容れないものかもしれません。しかし、だからといって、その相容れない『主義』を無視していても何ら解決にはなりません。研究者一般の『主義』と、一般市民の『主義』とが衝突したとき、あるいは他の宗教信者の『主義』とが対立したときには、何らかの処置をとらざるを得ないはずです。特に、税金や企業の資金などで研究している場合は、スポンサーである国民や企業と研究者の『主義』が対立することは、本来許されません。生命倫理を考える際には、このようなケースも念頭に置く必要があります。 Venterの場合は、もう少し事態が複雑です。Venterが責任を負うのは、直接的には彼の立ち上げた企業への投資家と、そこへ補助金を出した米国政府(すなわち全米国民)でしょう。しかしながら、文化圏が地球規模に拡大しつつある現在、社会責任の意味も 拡大してきています。話題が科学から外れますが、アフリカの某国で起こっている人権侵害に対して北米の某国の国民が「黙認してはならない」と主張することが実際にあります。それと同様に、日本人が(するかどうかは別にして)、米国で進んでいる「生物合成」の計画にNoということは異常ではないはずです。 okさんの言う「地域地域の文化圏内でコンセンサスを形成」( ok Date:2002.12.10 Tue 07:26:53)するという行為はこの観点からは意味をなさなくなります。 「生物合成」は、命という、文化に関わらず重要な意味を持つことがらの本質に触れる研究です。であるなら、世界規模の「文化圏」でコンセンサスを得る必要が出てきてしまい、Venterのケースではそれが批判の対象になりえます。世界に存在する無数の『主義』の間で(合意という意味で)コンセンサスを得るということは可能でしょうか?この、世界規模の「文化圏」の中には、当然、「生命を研究対象にすること自体、悪だ」という『主義』から、自分に害が及ばなければ何が起こっても関係ないという『主義』まで両極端な『主義』が含まれます。okさんが「動物実験反対」という『主義』と合意するとは到底想像できないので、これはもはや不可能といってよいでしょう。 それでもなお、何らかの解決はしなければならないでしょう。合意という狭い意味の解決ではなく、多数決といった見かけ上の解決でもなく、武力による解決でももちろんない、異なる『主義』が共存可能な解決法を探る必要があります。今のところ仲田にはそのような解決法がどのようなものなのかも、そもそも存在しうるのかもわかりません。ただ、現在の世界において、対立する『主義』の問題が未解決のままであることは(特に昨年9月11日に始まる戦争によって)思い知らされています。これから先、『主義』と『主義』の対立に対処していく「解決法」を見出していくためにも、相容れない『主義』に耳を傾ける必要はあるでしょう。 こう書けば、他者の、必ずしも論理的でない『主義』を聞くという行為が、「話合い甲斐のある、実際的な問題をはらんだ、さらに言えば単なる感じ方ではないような諸問題について、(感じるのではなく)考えるもの」であるとご理解いただけるのではないでしょうか。
主要な論点は書いたつもりなので、細かい注釈も加えておきます。 okさんと仲田の間で大きく対立している「感情的な『主義』を聞く必要があるのか」という命題についてですが、「聞く」という単語が二通りに解釈できる可能性があるので、指摘しておきたいと思います。仲田の意図としては、「参照意見として把握しておく」という意味で使っています。もし、「意見を受け入れる;意見に従う」という意味で解釈されているのだとしたら、それは誤解です。 それでは、「参照意見として把握しておく」ことにどのような実際的意義があるのかという点も、批判の対象になりえるでしょう。okさんとは違って(ok Date:2002.12.19 Thu 22:17:12)、仲田は必ずしも感傷的な『主義』との間の対立を乗り越える答えを見つけていません。「それを乗り越えると考えている答えもある」とのことなので、是非その「答え」を聞かせていただきたいと思います。 また、「人の感じ方なんて、ネガティブからポジティブまで容易に想像がつくことではありませんか」( ok Date:2002.12.19 Thu 22:17:12)との見解もありますが、仲田はそこまで自信を持って想像することができません。想像することができないから、「参照意見として把握しておく」意義があると考えています。
『主義』について ここでは、本来の「主義」という単語の持つ意味から離れて使っています(多分)。ここで用いる『主義』は、「各人における善悪の判断基準」と定義します。これには、okさんのいう「感じ方」やら、宗教上の戒律・見解なども含まれます。例えば、宗教の教義という『主義』を採用する人もいるでしょう。「すべて人類は〜すべきである」といった、適用対象の広い『主義』を持つ人もいるでしょうし、「わたしは〜すべきだが、これは人によりけりである」という適用範囲も個人的な『主義』をもつ人もいるでしょう。 おそらく、全ての人間は、それが論理的なものであれ、感傷的なものであれ、何らかの『主義』をもっていると思われます。今回のケースで問題になるのは「適用範囲の広い」『主義』同士が矛盾してくる場合と考えていただけるとわかりやすいでしょう。
3点について書くつもりが、最初の1点で力尽きてしまいました。残りの2点、
>どんな「実用化」を考えているのかよく分かりませんが、みんな「動物様」の人造生物が例に挙がっているのが気になります。
>仲田君が「生命倫理」として挙げたクローンと遺伝子組み換えですが、共に安全性が重要な問題として議論されており、クローンでは「生命倫理」である「クローン人間は誰の子か?」「人権は保護されるのか?」といったような人間存在あるいは知的な存在に関わる問題が摺り合わせられました。
についてはまた今度ということで。
>これから先、『主義』と『主義』の対立に対処していく「解決法」を見出していくためにも、相容れない『主義』に耳を傾ける必要はあるでしょう。
ブッシュさんの世の中になってから、アメリカではすごろくのマスが一つ戻ってしまいましたが、「文明の衝突」という問題に関してそれまでは以下のような行動が模索/確信されていた、と考えられます。(政治家や学者など実際に考えている人の間では。) 1.互いの文化を体験しあう(もちろん、郷に入っては郷に従う、感じで。) 2.体験しない人、共感できない人がとやかく言わない(差異を認め合い、差異に寛容になる。)
少なくとも文系っぽい世界では、「『主義』と『主義』の対立」というのはよく出てくる問題であり、上のように一定の行き着く先(寛容になる)を既に見つけている問題であるとも言えます。しかし、これらの解決策が十分に世界に認知されているとは言えない状態、すなわち「不寛容」さが覆った世界をどのように変えていこうか、というのが20世紀末における文学者達のテーマであった、とも聞いています。
仲田君の唱える、「対立を解決する」という視点に、対立そのものは残したまま認め合う、という視点が含まれるのならば、それで良いのでしょう。敢えて言うのならば、「地域」外において形成される必要のあるコンセンサスは「差異があり、差異に寛容になろう」という事だけなのです。
>仲田はそこまで自信を持って想像することができません。想像することができないから、「参照意見として把握しておく」意義があると考えています。
少し言い方を変えてみます。
理由や根拠が希薄な意見は、結局、好きか嫌いか、という気持ちを表すだけだと思います。 ディベートのように「好きか嫌いか」の立場を他人に選んで貰ったとしても、それなりに「根拠」があるかのような討論を行うこともできます。 「根拠」の質も問題になるのでしょう。
少なくとも当初仲田君が挙げていた「他の宗教や倫理観との間の軋轢」における各人の「根拠」とは大半が「自らの宗教観、倫理観」であるわけで、(その「根拠」が具体的、現実的な「問題」として提示されるまでは)「把握」さえできない、と思います。
現実的な「問題」、すなわち「不都合」が提示されない「意見」から、「あの人は嫌いなのか/好きなのか」以上の情報が得られるのでしょうか?
>「生物合成」は、命という、文化に関わらず重要な意味を持つことがらの本質に触れる研究です。
命の定義をきかせて下さい。 文化に関わらないのでしょうか? ここにドグマがある気がすることは以前にも書いた気がします。
ok Date:2002.12.29 Sun 14:35:51へのレス
まず、okさんの紹介する「差異があり、差異に寛容になろう」というスタンス自体は仲田も賛成ですし、同じ立場です。しかしながら、「一定の行き着く先(寛容になる)を既に見つけている」、という事には異論があります。 確かに、「差異があり、差異に寛容になろう」(以下「寛容法」と略記)が問題の解決に貢献できることには賛成ですが、これは矛盾をはらんでいます。そもそも「寛容法」という『主義』をとるか、「不寛容」な『主義』をとるかという問題には「寛容法」は適用できないからです。妥協を許さず、(他人に対しても)寛容であることを許さない『主義』にいかに対処するかという矛盾は「寛容法」だけでは解決できません。 「『不寛容』さが覆った世界を」変えていくという姿勢も、「不寛容」な『主義』に対して「不寛容」ですよね。「不寛容」な宗教だって立派な文化の一つとも言えるのに(そのような宗教は例えば米国にとっては「敵」かもしれませんが)。 ここまで踏まえたうえで、仲田はやはり、「対立する『主義』の問題が未解決のままである」と考えています。
次に、「理由や根拠が希薄な意見は、結局、好きか嫌いか、という気持ちを表すだけだと思います」から始まる文章についてですが、okさんと仲田の間には「論理的であること」に関して立場の違いがあると思います。okさんは「論理的」に議論できるかどうかということを過大評価していませんか?なるほど、「論理的」議論というのはわかりやすく、誤解を生じにくいとは思います。ですから、この掲示板上で「論理的」な議論をするよう努力することは重要だと認めます。また、科学者は事象を「客観的」に評価することが求められますから、科学者としての立場で議論する場合は「論理的」でなければならないでしょう。
しかし、科学者以外の人間(以下「市民」)にとっては「論理的」であることは義務ではないと思います。これは「論理的」に矛盾していてもよい、という意味ではなく、「議論の進行方針や根拠が『論理的』に説明可能である必要はない」、という意味です。例えば、「そのグロテスクな魚を私に見せないで」とか、「ぼくの犬を虐めないで」とか主張するときに、「市民」としては『論拠』を示す必要はないでしょう。
無論、「その魚の形状から来る視覚刺激は〜ニューロンを活性化し、引き続き〜ニューロンの活性化で定義できる『不快感』をもたらすので、それを拒否する権利が私には日本国憲法第〜条によって認められており、あなたが日本国の主権の範囲にいる以上、今言ったことに基づいてその魚を私の目に届き得る所から外す義務があなたにはある」とか、「今君が虐めている犬は、ぼくのものだよ。だから、その犬に怪我をさせると器物損壊やら動物愛護法違反になると思うんだ。だから、君がこれ以上犬を虐めるようなら君を告訴するよ。さっきもいったように、君のやってることは法律違反になると思うから、君はぼくにお金を払わなきゃいけなくなると思うよ。それが嫌なら君はぼくの犬を虐めるのをやめたほうがいいんじゃない?」といえば説得力は増すかもしれませんが、これがナンセンスなのは言うまでもないですよね。
同様に、「市民」が科学者に対して意見を述べるときにも、『論拠』を示す必要はないと考えます。『論拠』が示されていないとわかりにくいかもしれませんし、誤解を生みやすいかもしれません。しかし、今述べた欠陥は『論拠』のない『理由』を拒絶するのに十分な理由とは思えません。「市民」がある主張をしたとき、その『理由』が『論拠』として提示されていようと、感情のみに起因する『動機』であろうと、科学者にはそれを聞き、判断材料の一つとして「把握」しておく必要があると思います(これは先日の意見の繰り返しですが)。
以上のような立場から、okさんの意見に反論したいと思います。
>少なくとも当初仲田君が挙げていた「他の宗教や倫理観との間の軋轢」における各人の「根拠」とは大半が「自らの宗教観、倫理観」であるわけで、(その「根拠」が具体的、現実的な「問題」として提示されるまでは)「把握」さえできない、と思います。( ok Date:2002.12.29 Sun 14:35:51)
これは、「各人の主張の『理由』に、『動機』以外に、『論拠』が存在し、かつ示されていない限り、okさんにはその『理由』を把握することができない」と読み取れました(「その「根拠」が具体的、現実的な「問題」として提示されるまでは」との文章の解釈には自信がないので、この部分を言い換えてもらえると助かります)。
しかし、科学者(に限らず多くの人)にとって、他者の主張の『理由』を把握し、それに(科学者の場合は「論理的」に)答えることが重要なのであって、その『理由』が『動機』として提示されているのか、『論拠』として提示されているのかは副次的な問題でしかないと考えます。『論拠』が与えられた方が望ましいという点では、仲田もokさんと意見が一致すると思いますが、『論拠』がなければ『理由』が「把握」できない、というのは言い過ぎではないでしょうか?
仲田は、たとえ『動機』であっても『理由』として「把握」できます。たとえ困難であっても、「動物実験反対」という主張の『理由』(≒『動機』)(の一端)は「把握」できますし、それが重要だと考えています。ついでに言うと、今の表現は「仲田はそこまで自信を持って想像することができません」(仲田 Date:2002.12.28 Sat 17:46:58)との表現とは矛盾しません。似たような『動機』であっても、嫌悪感の強さ、由来などは色々とあります。その多様性を「想像することができない」からこそ、個々の『動機』を聞いていく必要があると思うのです。
最後に、「命の定義をきかせて下さい。/文化に関わらないのでしょうか?/ここにドグマがある気がすることは以前にも書いた気がします」とのことですが、仲田が「命」という言葉を使ったときには、詳細な定義は念頭になかったので、それを今から説明するのは適切ではないかと思います。強いて言うなら「生き物(?生物)の持つ普遍的属性」でしょうか?むしろ、こう言ったほうがよいかもしれません。仲田の文章中の「命」が表しているものは、生物学的な表現ではなく感性でとらえられるものです。これ以上は煩雑な解説になってしまいますし、必要もないと思うんですが・・・ そして、「文化に関わらないのでしょうか?/ここにドグマがある気がすることは以前にも書いた気がします」とのご指摘は、少々論旨からずれているように思えます。仲田の文章をもう一回引用しますと、「『生物合成』は、命という、文化に関わらず重要な意味を持つことがらの本質に触れる研究です。であるなら、世界規模の『文化圏』でコンセンサスを得る必要が出てきてしま(う)」となります。この文章を通して最も言いたかったのは、「命の本質にかかわる問題は、米国一国内にとどまらず、より広い(世界規模の)『文化圏』で問題になりうる」ということです。さらに言い換えれば、「生物合成を問題視するのは、無視できるほど少ない(小さな)『文化圏』ではないだろう」ということです。だから、okさんのご指摘を認めても、なお問題は残るのではないかと。ただ、「以前にも書いた」というのがどのことを指しているのかは教えてほしいところです。 ちなみに、この問題が「カトリックキリスト教系でしか問題にならない」(ok Date:2002.12.03 Tue 23:32:14)とうことはないとは思います。宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」(漫画版)なんかをお読みになると、命の定義も含めて、仲田の主張がご理解いただけるのではないかと(『論拠』ではなく、『動機』が、ですけどね)。
『主義』( 仲田 Date:2002.12.28 Sat 17:46:58を参照)
『理由』、『論拠』、『動機』について
『理由』というのを、その説明可能性や説明方法、あるいは至近要因か究極要因かその間かに限らず、問題の人物が問題の行動を起こした(または主張をたてた)原因の一部、あるいは全部、と定義しましょう(ちょっと穴がある定義かもしれません)。この場合、その原因は単なる生理的反射かもしれませんし、感情的なものかもしれません。あるいは、その一部を「論理的」な方法で記述できるかもしれません(この場合、議論をする当事者間で前提となる感情が共有される必要があると思うんですが)。
この際、生理的反射はたぶん関係ないので、感情的な『理由』と、「論理的」方法で記述できる『理由』が議論の的になってくる(いた)」でしょう。そこで、前者を『動機』、後者を『論拠』として定義しました。
上で議論になっている問題には、議論をする際に必ず『理由』は『論拠』でなければならないのか、『動機』も『理由』になりうるのかという問題が含まれると思います。
残念ながらレスだけで時間切れになってしまいました。今日は大晦日。家族で食事の約束があるのでそろそろお暇させていただきます。
予告した残り2点について書けなかったのが不本意です。
なので、
>どんな「実用化」を考えているのかよく分かりませんが、みんな「動物様」の人造生物が例に挙がっているのが気になります。
に対してだけ、予備的なコメントをしておきます。
仲田としては、「市民」にとっては「動物様」の人造生物のみが問題になりやすいことは承知しているつもりです。しかし、科学者(特に生物学者)には、「動物様」生物とそれ以外の生物の違いを大きな違いと認めない人が多くいます。この捉え方のギャップが孕む意義とリスクを正しく理解できれば、例え「市民」の関心が「動物様」人造生命のみに行っていても、科学者間では人造細菌すら問題にしなければならない(と仲田が思っている)『論拠』が理解してもらえると思います。
『論拠』(仲田 Date:2002.12.31 Tue 16:31:51参照)
では、よいお年を。
>仲田はやはり、「対立する『主義』の問題が未解決のままである」と考えています。
有名なパラドクスですね。これでは子供が学習することさえも不可能であり、論理的には何らかの「世界観の破綻」を意味していると思われます。 まぁ、破綻している元凶は明らかで、仲田君が「寛容法」という『主義』に賛成し、なおかつ「科学者」であるはずなのにも関わらず、全ての議論をそれ以外の人々(例えば「市民」)にもそのまま当てはめようとしている点にあります。論理の世界はある一定の範囲で論理的に語る人の中で閉じていて、その他の人が議論することに無力です。議論という形式や厳密さだけ真似ても仕方ないことだと思います。感覚で話しましょう、でも感覚で話されたことを必ずしも反映する必要はないですよね…。 市民と科学者の視点を巧妙に行き来、あるいは混同することにより、無自覚に煽動している(されている?)ようにさえ感じます。論理的でない世界観は結構ですが、それならば、「〜してはいけない」というスローガンだけでは駄目ですね。どの様な世界観でどのような世界を目指されているのでしょうか?感覚的に教えて下さい。例えば、心の底から「働きたくない」と思っている人はたくさんいますよね…。
生の声に触れるのも良いかも知れませんが、僕は随分ふれてしまって飽きています。なんで「意見の多様性」が想像できないのかもよく分かりません。 例えば、「分かったり、想像できたりする」というのが、自分の中で、そのような(一部の「市民」的な)「意見」を作り出せるか否かにかかっているとするならば、僕はその様な「意見」を作りだすことができます。深刻ないい方から全くお気楽な意見まで。ただ、無責任に、あるいは野放図に共感したりできませんが。 それとも、力の使い方の問題でしょうか?「未解決」の問題も、追求した方がいい問題もたくさんありますが、どれに力を使うかはそれこそセンスの問題なのかもしれません。
(『動機』にごく素朴に答えてみると)
宮崎駿氏のかつての作品はどれもこれもそうでしたね。「自然」に「刃向かわず」に共有する安心感を手にしよう、と言う主張だったように思います。
話変わりますが、地動説に反対した人たちは、「中心」という感覚、あるいは「人間」に脚光が当たる感覚を重視し、信じていたと言います。つまり、「些細な」観察結果で天動説が揺らぐと、「生きる」という土台に重要な「神に見守られている安心感」が傷つくと思ったのです。(ま、後の人の分析的な主張ですが。)
宮沢賢治は共感できませんか?
共感できないとしたら、それらはテンポラリーだったんですね。
もう少し仲田の主張を読み返し、自分の頭で考えてからレスしてほしいですね。
okさんのいう「有名なパラドクス」を紹介したのはokさんのいう「「『主義』と『主義』の対立」というのはよく出てくる問題であり、上のように一定の行き着く先(寛容になる)を既に見つけている問題である」( ok Date:2002.12.29 Sun 14:35:51)との主張が「破綻している」と指摘するためでした。okさんの主張が破綻している理由についてはご自分で丁寧に分析しているようなので、もう説明は不要ですね。 ちなみに、仲田が「論理的」に議論するよう努力しているのも、okさんと柿原さん、lorkさん達が「論理的でない議論に意味があるか」といったようなことを議論していたのを踏まえてのことなので。そのスタンスにあわせてみたまでです(まあ、こういうスタンスのほうが得意なのは確かですけどね)。 でも気になるんですが、「全ての議論をそれ以外の人々(例えば「市民」)にもそのまま当てはめようとしている」( ok Date:2002.12.31 Tue 22:49:43)ってご自身のことでは?少なくとも仲田には心当たりがないので、仲田の文章のどこをどう読んだらそういう風に読めるのか教えてください。
で、仲田の主張が混乱したり破綻して見えるのなら、なるべく簡単にまとめて見ましょう。
okさんはここからさらに、「どの様な世界観でどのような世界を目指(すのか?)」と問いただしています。もう、お分かりとは思いますが、仲田は、まだ「目指すべき世界」というものを模索するための議論をしているので、okさんの問いは先走りすぎですね。 それでもokさんに「有名なパラドックス」やらを解決する具体的な方針があるなら、それが個人的な『主義』でも構わないので、ぜひお聞かせください。参考になるなら参考にしたいものです。
最後に宮崎駿氏の作品解釈については、主張の読み違いがあるようですね。(漫画版)「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」をよく読んでみると、「「自然」に「刃向かわず」に共有する安心感を手にしよう」という主張は考え方の一つとして示されているに過ぎないことがわかります。(マスコミはそういう「自然志向」が好きなので、okさんと同様の解釈を表に出したがっていましたが) で、「もののけ姫」が説明しやすいのですが、映画中ではサン(もののけ姫)を始めとするする「自然=野生」と生きるものと、エボシ御前を始めとする人間を中心に生きるものとの対立が示されています。結末では「自然」な森は滅び、人間側も大きな痛手を受けます。そこから森も人間も失ったものを再生させようとする(今までのものを復元はできないという点にも注意)ラストに続くわけです。これは現象論として人間と自然の衝突を描いていますが、実は「自然に刃向かうな」と入っていませんし、安心感なんかも強調されていません。映画としての性質上まとまったラストは存在しますが、物語世界の中では何ら解決がついていないのが特徴です。 「となりのトトロ」などを見ると、宮崎駿氏の里山への憧憬が読み取れますが、その中でも決して森林保護だとか里山保護だとかは主張しておらず、単に個人的な好みを提示しているようにみえます。 もし、宮崎駿氏の作品から無理に主張を読み取るとしたら、「自然を懐柔する」というのが最も近いのではないかと思いますが、無論これは無理な深読みの結果でしかありません。 宮崎駿氏の作品は、主義や主張を廃した「視線」、「自然とは、人間とはどのようなものか」というのを見つめるだけのアシタカ(「もののけ姫」主人公)の視線、以上のものでも以下のものでもないように思います。 前の書き込みでは、命を見る際の宮崎駿氏の視線、解釈を引用したかっただけなので、そういうつもりで読み返してください。
ちなみに仲田はあんまり宮沢賢治は読みません。微妙にセンスが違うというか、時代の空気の違いを先に感じてしまうので。でも、その障害がなければ共感したかもしれませんね。
「全ての議論をそれ以外の人々(例えば「市民」)にもそのまま当てはめようとしている」のは例えば、以下の点です。
>2.問題解決のために、「市民」に対して「もっと論理的になれ」などと科学者が主張することは筋違いであり、科学者の側からの解決法を探る必要がある。
>3.解決法を探るためには、科学者が「市民」としての感覚を共有することが重要である。そのためには、「市民」の主張の『理由』全般を『論拠』であるか『動機』であるかに関わらず聞くことが望ましい。(この点でVenterらは『論拠』のみに議論を絞って、見せ掛け上の解決を図っているだけだ、との批判が、多分この議論の始まり)
「解決法」の指さす先が、現実的な変更を志向している気がしますが違いますか?もしそうなら、そこが問題な点だと思います。 町内会ならともかく国政が現実問題として規制するのならば、何らかの「根拠」が必要でしょう。それならば「議論」が必要です。そうではなく、感覚的な「動機」には感覚的な何かを提供するにとどめるのが良いと思います。(少なくとも僕の『主義』では。) ある一つの感覚的な「動機」に対して、いちいち「解決」として現実を規制していくというのもそれ自体が『主義』だと思いますが、その『主義』の心がよく分かりません。(そんなことをして現実が良くなっていくとは思えず、単なる衆愚政治ではないか、と思います。)『解決』あるいは「『動機』と『根拠』を取り扱った結果、何を期待するのか」を混同しているように思うのですが、どうですか? もし仲田君の「解決」も、僕の考える「解決」と同じように(現実的な変更を伴わない)感覚的なものであったとするのならば、それは「論拠」を必要とする科学的アカデミーの雑誌に書く必要のある内容ではないと思います。科学の枠の外で「感覚的な解決」を探ればいいことで、科学の中での「解決」と同様の取り扱いをする必要はないでしょう。
>マスコミ
の解釈では、「もののけ姫」では、仲田君が述べているように、自然への見方が微妙に変化した、としていましたね。さらに、作品を追う毎に「自然に刃向かうな、共に生きよう」という「人間」対「自然」という二極対立路線の後退を迫られ、「千と千尋」では遂に多神教的でドロドロとした世界で、聡明且つ勇敢にふるまい、実際に湯屋を変えていく少女を通して、「そのような精神で生き抜くことで世界も変えていける」という新たな世界観(前に述べたように文学者の間では流行りの世界観)を爽快に提示した、と評価されているようです。
つまり、「差異を差異として認め、差異に寛容になる」はあくまで個人的な信念として貫くものです。別に「寛容法」は「不寛容法」に対して不寛容ではありません。なぜなら一人称的な「主義の認識」として、世界にむけて寛容である、というだけの主義だからです。二人称、あるいは三人称的な他者から「寛容」と見られることは目標ではありません。また、他者が「寛容」であるか否かも問いません。不寛容な人に文句は言いますし(「手」は出さない)、他の寛容な主義が要求してこないような他者の要求はのめませんが。
ok Date:2003.01.03 Fri 15:05:50
に関しては大体okさんの意見に賛成できます。
ただ、異なる点も明らかにしておきましょう(異なっていない?)。
>「解決法」の指さす先が、現実的な変更を志向している気がしますが違いますか?
一言で言って、「違います」。何度も書いてるんですが、読んでます?「未解決」とか「「解決法」を探るために」とか何度も書いてるんですけどねぇ。どうして(仲田なのかに)未だありもしない「解決法」が「現実的な変更を志向」しているように読めるんでしょう。もちろん、「解決法」が見出せた場合、それが「現実的な変更を志向」するかもしれませんし、『論拠』を持つかもしれませんが。
仲田にとってこの問題の争点は、「解決法をいかに探るか」にあることに注意してください。こちらの方は確かに「「市民」の『動機』を聞く」という現実的な要求になってきます。この点については今まで仲田が『論拠』を示してきましたので、「科学的アカデミーの雑誌に書く必要のある内容」にあたるのではないかと。ぶっちゃけて言えば、「市民」との間のコンセンサス会議といったものを開き、その結果を報告しろ、と。
その先の解決は「感覚的なもの」かもしれませんね。
ちなみに、生物合成については、『論拠』の提示可能な問題もあるので、それはまたの機会に。
ok Date:2003.01.03 Fri 15:41:24
に関しては、もうどうでもいいんですけど。多分「自然への見方が微妙に変化した」というのも間違いでしょう。「天空の城ラピュタ」もよく見ると、「もののけ姫」と近い構造なんですよね。「千と千尋の神隠し」は実はまだ見てないんですが(笑)、今月24日に日本テレビで放送されるのを待ちます。
>不寛容な人に文句は言いますし(「手」は出さない)、他の寛容な主義が要求してこないような他者の要求はのめませんが。
う〜ん。okさんがそういう立場を取るのは止めませんが、不寛容な人からの、命に関わる悪意には武力を使うしかない、としたバリエーションが某北米の大国とも思えますね。
これにも確か有名なパラドクスがあったと思います。互いに利権(領土)を争っている世界で、世界平和のために一国だけ武装放棄すると、他国の侵略を受け、その悪意のある国家を利する結果になる、というものでした。
核抑止力でも持ちますか?
あ〜、ややこしい。
感覚的な「解決」が
>「現実的な変更を志向」するかもしれませんし、『論拠』を持つかもしれませんが。
というのを一般に衆愚政治だ、と僕は考えています。もちろん、何かの「論拠」があれば別ですが。(その「論拠」は今まで何回も言ってきましたね。)「志向」というのは、可能性を排除していない姿勢も含んでいます。「解決手法」によって既に出る結論の可能性は絞られるのではないでしょうか。ちなみに、前に仲田君が挙げた法律的なものなどはあまり「論拠」とは考えていません。法律も単なる言葉遊びも「論拠」として認めるとそれこそどんな行動でも有罪にできるからです。それらは、訴訟を起こして裁判が行われていく中で初めて「論拠」としての妥当性が検討されるものでしょう。
「解決法」が「市民」との会議を開くとのことですが、今までそんな「会議」によって何か「解決」しているのでしょうか?「解決法」を探ろうと考えているにしては生ぬるい気がしますが。一部の「市民」が何だか対話したのが科学的アカデミーの雑誌に出ると納得へ一歩前進したことになるのでしょうか…?しかも、第一報に近いニュースがそれに触れている必要があるのでしょうか?
囚人のジレンマの問題は、複数の自我意識にあります。 単なる「感情移入」と以前に書かれていましたが、自我と感情移入の間には連続性があります。自我が基盤の危うい、深遠なものであることが明らかになってきています。 共感などの手法が新たな自我を生み出していくことが、「論理」の生み出す諸問題の解決となる可能性があると思います。
どちらにせよ、
>ちなみに、生物合成については、『論拠』の提示可能な問題もあるので、それはまたの機会に。
論拠のある問題を追求するのがいいと思います。