まだ続きそうなのでスレッドを立て直してみます。僕が勝手に要約しました。
なるべく本文中の言葉を忠実に用いたつもりですが、
意図しないまとめられ方をされていた場合は各自で訂正してください。
論がそれ以上展開されなかった議題で重要ではない
と思われるものについては割愛させていただきました。
これも必要と思われたら追加してください。
敬称は略させていただきます。
一つの意見は -[?]で番号付けし、>は意見に対する返答をあらわします。
うへ、気づいたら2時間半も費やしてしまいました…。
乗りかけた船でやっつけてしまいましたが。
ネットは恐ろしいです。(自戒せねば)
思うに客観的、主観的といった言葉の定義のぶれが
ミスリーディングな気がします。
この点はそのうち気力がわいたらはっきりさせましょう。
[24]から[25],[26]はちょっと飛躍があるように思います。
見事な情報処理手法ですね。参考にさせてもらいます。
私の主張の骨組みはragusさんの抽象化の通りです。
ragusさん、要約ご苦労様です。
今のところ、わたしの意図が歪められていることはないようです。
[7]について、
> 僕もあると信じたいです(否定的ですが)。これは難しいですね。
> 人文学者や哲学者の手を借りて、
> 人間の理解というものを深める必要があるように思います。
ragusさん、本当にその通りだと思います。
わたしはこの点が一番話し甲斐のあるテーマのように思っているので、
出来れば具体的な方法論まで話せれば良いんですけど・・・
確かに、難しい課題なのは認めます。でも、完全な解答でなくても、
感情面に「配慮」する方法はいくらもあります。
実験動物の問題に対して、現在の科学者が取っている方法が
まさに「配慮」ではないですか?
科学者が倫理について話し合うとき、
そういう配慮も含められるべきだと思います。
その基準、というか配慮の方法については皆さん、
どうお考えなんでしょう。ご意見、お聞かせください。
あるいは、「配慮」とは別の答えもあると思うので、その点も聞きたいかな、と。
次に、[21]と[22]について。
前者については、すぐに答えの出る問題ではないのでしょうが、
後者についてはokさんにお答えいただきたいです。
次、です。
えーと、ragus No. は、と。
はい。[24]-[26]、ですね。
ちょっと順番を入れ替えて、[26]から。
「主観的に一時的でない社会的合意を考えること」はナンセンスだと思います。
さらに言うなら、「一時的でない社会的合意を考えること」だけで、
もうナンセンスです。
以前のわたしの書き込みを読み返して下さい。
以下にわかりやすく手直しもしておきましょう。
「感情に頼った議論(手法)が流動的であいまいなもので、
その曖昧な感情を相手にしなければならない。
それは論理的な主張に対するのとは別の方法論が必要になってくる」
このときは、わたし、確かにあいまいさに重点を置いたので
わかりにくかったかもしれませんが、
流動的、って点も注目して欲しかったです。
わたしたちが生きている世の中そのものが流動的なもの。
その中では「普遍性」を志向することは理想ですが、
「普遍性」であることを義務付けるのはあまりにも無謀ではないでしょうか。
「普遍性」のために一時的な解決が妨げられるなんて、ばかばかしいです。
これが[25]への意見。客観的だろうと主観的だろうと、
一時的だろうと、対策を採ること自体はナンセンスではない!! と思います。
あと、ragus No.がわからなかったんですが、okさんとの間には、
「解決」という言葉にもミスリーディングが感じられるんです。
結局okさんはどういう「解決」を志向してるんですか?
「客観的で恒久的な社会的合意」ですか?
それで何ができるんですか?
okさんが例に挙げた「新大久保事件」。
okさんによれば、
「客観的な意味で重要な問題は最初からほとんど解決されていた」のなら、
それこそ、その「解決」に無力感を覚えないんですか?
「二人の行動を無駄にしないため」という感情のほうがよほど力がありました。
その感情を頼りに、前進していくしかないでしょう?
安易に無力な「客観性」を並べるのは「解決」ではないと思います。
繰り返し、繰り返し自らの感情に、他人の感情に問いを発し続ける、
そういう「主観性」「一時性」を頼りにすることも必要なのでは。
これを続けていくことが当面のわたしのスタンスです。
ご意見ください。
なんだか、いつのまにか話がスライドしているような気がしないでも
ないですが、思いついたことを書いてみます。
ニュートリノの質量の有無とか、ビッグバンの正確な発生時間、
海王星の大気組成、正確な地球の誕生時期などは、
科学の対象をまったく客観化していると錯覚することが可能であるくらい
日常生活への研究の寄与はありません。
分子生物学がなぜわけわからない状況を生み出しているかということを
考える上で、生物学の対象が客観視できると錯覚できる対象ではないこと、
つまり研究主体である「ヒト」が研究対象であることが
重要な側面である、と考えられないでしょうか。
客観性・主観性の境界の曖昧さを生んでいる元凶はこの
研究対象と主体の一致であるような気がします。
常に問いを発しつづけるのも悪くないでしょう。
でも感情とか理性とか、区別できるものなのでしょうか?
そもそも後から「ことば」として区別されているだけで、
「科学的」分析が進めば同一の次元上の現象として再構成される
可能性も十分考えられると思います。
ちょっと乱暴な思考になりますが、
大腸菌(Escherichia coli)などで抗生物質耐性の株ができてきたり、
肺結核菌(Mycobacteria tuberculosis)でも別にプラスミドによる
形質転換を誰かがやったわけでもないのに、抗生物質に耐性をもつ
ようになったりしてきています。
製薬会社が市場の減少を危惧して、形質転換させた結核菌を
環境中に放出したという可能性も否定はできませんが、
自分が感染する可能性と会社の利益を天秤にかけて、
後者を選ぶような見上げた会社に尽くすタイプは珍しいかと思います。
結構生物はしぶといので、楽しい研究をわけのわからない
感情論で規制しないで、やるところまでやっちゃってもいいのでは
ないでしょうか?自分の生み出した技術で、「ヒト」と
いう種が危機に瀕しても、ヒト以外は別に困らないと思いますし…。
動物の品種改良なんていうことを何千年も前からやって家畜産業を
創り上げてきた文化圏(西欧)の人々のスポーツの祭典で、
ドーピング検査とかセックスチェックみたいにわけわからない
検査が流行ってますが、ヒトだけは遺伝子工学の対象とするのは
やめようっていうのはなんだか矛盾してる気がします。
やるならとことんやっちゃいましょうよ。
必要に応じて進化するのが生物でしょ?
だめなら滅びるだけです。対応できなかったゲノムが。
ちょっと危険思想ですね。
[7]について書きます。
感情的な「主張」に従わずとも、「感情的な面」との整合性を取る道があるはず
>僕もあると信じたいです(否定的ですが)。これは難しいですね。
人文学者や哲学者の手を借りて、人間の理解というものを深める必要があるように思います。
これは妥協というのではないでしょうか?
私は動物学を専門としていますが、どうしてもできない実験があります。
やらないと単位がもらえないのでやりましたが、かなり生理的に
きつかったです。プロトコールを思い出すのもいやで、
RTKさんのようになんでもやってしまえ、という考えはできません。
でも誰かがルールを作らないと、誰かが作った技術によって[19]の
通りになるのかもしれないですね。
どうしたらいいのか見当もつきません。
まず主観性、客観性について思うところを述べます。
科学者が科学者の立場として客観と呼べるのものは
計測されたデータしかありません。
なぜ計測データを客観的と呼べるのか…
それは科学者は世界は(繰り返し)観測される事象によってのみ成り立ち、
しかもそれらの事象は
何らかの法則に従い(繰り返し)生じると信じているからです。
でも注意すればすぐわかるとおり、この信じるという部分は主観です。
でも(ミントさんの論を借りると)これが多くの人に共通する主観なので
客観的だと考えるわけです。
というわけで、
主観に表層的も根源的もないということに対する答えとなるでしょうか。
僕にとって上述の信じている部分はゆるんではいけないものです。
そういう意味で、感情的な主観とは別種のものです。
でもどちらも主観であるといわれたら主観です。
それを区別したいがために信奉という言葉を使ったわけです。
RTKさんの
>感情とか理性とか、区別できるものなのでしょうか?
に対するヒントにはなるかもしれませんね。
しかし、後の議論の発展を見るに少し主観という言葉に
深い意味を持たせすぎたようです。
皆さんは科学者いう客観に対する反対語として用いているようですね。
(ミントさんの意見があまりに僕の考えにフィットしたので
勘違いしてしまいました。)
さてこれ以降の議論では客観は科学者にとっての客観とし、
それ以外の場合で用いる場合はミントさんのように 「」 付けとしましょう。
では、再び倫理の話に戻します。
ここにきてなぜ倫理の話がもてはやされるようになったのかというと、
まさしくRTKさんのご指摘のとおり
>生物学の対象が客観視できると錯覚できる対象ではないこと
>研究対象と主体の一致
にあると僕も思います。でも話は生物学に限らないと思います。拡張すれば、
研究対象と主体の分離不可能性とでもいうべきでしょうか。
端的な例は原子爆弾です。
技術の力が大きくなりすぎて、
人間自身を系に含めなければいけなくなってきたわけです。
感情的反発が出やすいかどうかの違いです。
注意してほしいのは僕は感情的な反発がでるから
倫理を必要にしているのではなく、
研究対象と主体の分離不可能性があるから
倫理規制が必要なのかもしれないという点です。
ではこの問題をどう解決するのかということですが…
一つあるのはokさんや、RTKさんのように、
従来の科学的な客観性のみから論を進めていく方法です。
この場合、研究自身が善でありますから人間なんてどうなってもいい
という論も当然出てしかりです。
でも、待ってください。本当にそれでいいのですか?
私は科学者(本当は工学者・技術屋だから皆さんとはスタンスが違うかも)
である前に一個の人間であります。
研究は最終的には人類を豊かにするものでなければいけないと思っています。
これは「主観」です。(しかも根源的な主観=信奉、
簡単のため以降この意味で信奉を使います)
ここで、先ほどの科学者としての客観的態度に先立つ、
または並列する要素が出てきてしまうわけです。
「人類が豊かになる研究」という主観も
多くの人に共通する「主観」=信奉であり、
科学者の客観性によって排除できるものではないわけです。
(このような信奉のない人もいてしかりですが、
そういう人は社会的に排除される傾向にあるでしょう。
RTKさんの「危険思想」がこの信奉を持つ(多くの)人によって
危険思想として排除されてしまうわけですな。)
以降の議論はこの信奉を持たない人にとっては単なるこけおどしになります。
でも私にとっては重要な信奉であり、また多くの人がそうあるべきだと
思っていることとして話します。まだ話は長いです。
この「人類を豊かに」というのが厄介者です。
科学は自身の信奉が論を進めるための定義(データと法則)を
内包しているのでここまで発展してきたわけです。
ところが「人類を豊かに」ということに関し、
なにを基準に「客観的」に論じれば良いかがわからないわけです。
(問いを発したのも今考えればこのことに起因するわけですね)
ですから柿原君の
>>>感情的な「主張」に従わずとも、「感情的な面」との整合性を取る道があるはず
>>僕もあると信じたいです(否定的ですが)。これは難しいですね。
>>人文学者や哲学者の手を借りて、人間の理解というものを深める必要があるように思います。
>これは妥協というのではないでしょうか?
という指摘も当然かもしれません。
でも逆に問いたいのはではどうしますか?ということです。
僕の論に従えば「人間を豊かに」した!といえるには人間性の理解が不可欠です。
「人間を豊かに」したらおそらく感情面での整合性も結果的には取れるのと
おもうので、ミントさんの論も納得するわけです。
極論を言えば、「人間の豊かさ」が理論的に導かれたものであろうがなかろうが
知ったことではないわけで、
豊かになったことが正確に測れるものならナンだっていいのです。
科学的に「豊かさ測定器」なんてものができたらいうことないのですが…
さて、夕食だそうです。
論はまだ展開されつくしていませんが、
私は個人的な「人間の豊かさ」を享受するため、
ここらへんで失礼します。ご意見ください。
RTKさんと似ているかも知れませんが、
(そして前々スレッドから繰り返し述べていることでありますが)
僕は科学が「最終的に必ず人類を豊かにする」ものである必要は
ないと思います。科学という手法を数人でも繰り返して(きた/いく)こと
こそが、人間的であると思います。現在の人類が過去の人類と比べて
豊かになったかどうかは分かりませんが、
そうして進んできた道が人間的であったと思います。
ただ、かといって
>やるならとことんやっちゃいましょうよ。
とは思いません。応用については「具体的問題」を考慮すべきだと思います。
「研究対象と主体の分離不可能性」が挙げられていますが、
これを倫理や感情で解決する必要はないと思います。
「具体的な問題」は枚挙にいとまがないと思うからです。
(敢えて倫理や感情を利用しようとするのならば、
たくさんある「具体的問題」の中でどれに最初に
焦点を当てるか選ぶときかもしれません。)
いずれも「科学者が考える客観的さ」に完全に立脚した思考で、
一般の社会的合意になるとは考えていません。
でも結局そこに落ち着くんですから…。
考えるならばもっと他のことを考えます。一時的な対応とかね。
柿原くんの意見に対して
柿原くんの「どうしてもできない実験」が何だか具体的には知りませんが、
似たシチュエーションを体感したことがあります。
生命・認知学科にいた当時のこと、マウスの解剖実験がありました。
(それを拒否した人もいました。)実験の担当教官は某お坊さんでしたが、
こんな事を言いながらマウスを殺していました。
「よーくみておけー。これが研究するということの姿なんだぞぉー。
今度ニワトリの屠殺場に行って、人間が生きると言うことも見ておくといい。
とりあえず、今日はこのネズミさんに教わることを感謝するんだ。」
ミントさんの意見に対して
>客観的だろうと主観的だろうと、一時的だろうと、対策を採ること自体はナンセンスではない!! と思います。
>okさんによれば、「客観的な意味で重要な問題は最初からほとんど解決されていた」のなら、それこそ、その「解決」に無力感を覚えないんですか?
感情や世論の任すまま「改革」や「再編」を繰り返して、
同じ所をぐるぐる回る無力感は良く感じています。
客観的思考が出す「解決」は「あるべき姿」だけでなく、
「決め方の決め方」の「解決」をも示しているわけで、
感情という「決め方」は(具体的な問題が指摘できなかった場合)
結局一時的で無力だと客観的に記述してみました。
焦点のあて所が良くない(解決されている)感情を
どうこうするのは感情の無駄遣いだと思います。
他にあるべき姿に至っていないが「解決」できることはいくらでもあるわけで…。
ragusさんの意見に対して
「豊かさ」を測ることについて、意見を述べます。
経済学的には「stockとflow」という話に近くなるのだと思いますが、
少なくとも、ある時点の「豊かさ」とは前の時点の「豊かさ」との差が
影響していると思います。「豊かな社会」が全く同じようにずっと続けば
「豊か」ではなくなってしまう、というようなことです。
「豊かな状態」というのは、「豊かである状態」を維持できるが、
日々発展して移り変わっていく状態である、と思うわけです。
するともちろん、『ミントさん的「解決」』をぐるぐる回る世界も、
ぐるぐる回っていることに気づきさえしなければ豊かであると言えるでしょう。
人間の歴史の多くはそうやって流れてきました。
でも何回か、ぐるぐる回っていることに気づいて/そこまでは気づかず変革が
生じました。その多くに客観的思考や科学が関わっています。
先程も書きましたが、それで「豊か」になったか否かは分かりません。
でも人間的であると思います。
「豊かさ」について意見を書きます。
考えられる問題の羅列になりますが、意見を下さい。
#下に書いたクラスを拡張してくれてもいいです。
1.誰にとっての豊かさか?
現在生きている人類にとっての豊かさか、
あるいは今後生まれる人類も含まれるのか?
2.豊かさの享受に格差があってもいいのか?
# 幸せをオブジェクトとして定義できればいいのに。
public class Happiness {
private int[][] index;
// 幸せの指標を表す。これが定義しようがないが。
public int[][] getIndex();
public void setIndex(int[][]);
}
民主主義社会においては、
多数決によって幸せを決めても良いのではないでしょうか?
もちろん、少数派の人権を侵害しない範囲においてですが。
理想論を言えば最大多数の最大幸福だと思います。
ゲーム理論のいうパレート最適解みたいなものでしょう。
時間軸については、どうしても現在に重点がかかるでしょう。
でもそれは明らかに未来の人間の豊かさを奪うものであってはならないと思います。
その評価は難しいですが。
格差はないのが理想ですが、あるのはしかたがないかと思います…
何を想定しているのかわかりにくいので答えにくいです。
逆に言えば、どういう具体例を出すかによって僕の答え方も変わってくると思います。
(答え方が変わるという状況が自分にとって合理的な結論なのかはまだ思案中です。)