予告した、新しいトランスジェニック豚の製造方法についての 論文を紹介します。
異種間での臓器移植で発生する超急性拒絶反応の抑制及び、 GVHD(Grand Versus Host Disease)移植片対宿主反応の抑制の ために、複数の遺伝子導入をする必要があります。
既存の方法では、受精卵にDNAマイクロインジェクションを 行う方法が主でした。今回発表された方法は、精子にあらかじめ 仕掛けをしておき、トランスジェニックを作成するという方法で コストの削減及び、導入効率の上昇を図ることが可能となりました。
とりたてていうことがないのですが、 Nature 等の雑誌とは異なり、 PNAS の投稿フォーマットは、実験レポートを書く際に、参考になる と思います。一度はなんらかの形で読んでおくといいかもしれません。
具体的なプロトコールやフィギュア、数値がほしい方は ダウンロードしてみてください。
1点目:
これまでのデータと、新しいデータの比較のために使われていた
手法が、学生実習で練習済みのプロトコールだったことが
斬新だった。つまり、技術的な面では、先端技術を既に習得しつつある、
ということが示唆されている。
具体的には:
in situ hybridisation 法によるゲノムレベルでの導入確認
southern blotting による mRNA 発現パターン解析
immunohistochemistry 法によるタンパク質発現解析
が、学部3年の実習書にのっているスタンダードプロトコール、
よく知った試薬を用いて行われている。
2点目:
実用に耐え、かつコストパフォーマンスをよくすることは、
特に医療・製薬の分野では重要なファクターとなってくる。
一般へのフィードバック及び、利益の追求は企業の存在理由そのものだ。
企業就職を考えている場合、常に実用可能かどうかという問題に
直面せざるをえない。そのことを再認識させてくれる論文だった。
PNAS はいいね。> 仲田さん
KKさんのコメントを読んでいると、トランスジェニック豚の作成が大きく進歩したように聞こえます。 しかしその前に,そもそも異種間臓器移植についてはどこまで上手くいっているんでしょうか. 人間あるいは人間以外の動物での実験例があれば,教えてください.
もう1点、豚の臓器を人間に移植することは、いわば人と動物のキメラを作る行為とも受け取られかねません。倫理的な批判も強かったように記憶しているのですが,この問題は解決済みなんですか? クローン人間みたいに禁止されてしまったら元も子もないですよね。
> 異種間臓器移植についてはどこまで上手くいっているんでしょうか.
> 人間あるいは人間以外の動物での実験例があれば,教えてください.
超急性拒絶反応と GVHD の壁が、 in vitro で超えられた程度です。
実際に移植した場合、組織が定着しても一月もちません。
実験例は手元にデータがないので、すぐには答えられません。
> 倫理的な批判
この点については、かなり私、柿原独自の考えがあるので、反発が予想されます。
以下の記述に関しては、こういう視点の人間もいるということを、
認識する程度にとどめてください。感情論で批判するのはやめてください。
論理的にコメントをくださるのは歓迎しますが、それ以外は削除依頼を出します。
なまなましいということを理解して読んでください:
生命倫理という観点からすれば、受け入れられない人もいるでしょう。 ただ、脳死移植が合法化されたようにしだいに受け入れられていくことは予想できます。
いきなり結論に入ると、生死がかかれば、倫理は吹き飛びます。 所詮、生命倫理など理想論に過ぎません。 移植臓器待ちのひとに、死ねと言えますか?という問題です。 立派な話を平時にしている人ほど、 critical situation で意見を翻すようですね。
市場は間違いなく存在し、資金も潤沢に研究所に降りているようですし。 医療系の繁栄は疑うべくもありません。不老不死の薬を間違って開発しないかぎり。
多重臓器不全を移植によって乗り越えたとしても、AD(アルツハイマー病) は現在不可避ですし、 PRC(プロラクチン) の副作用蓄積による生殖器系のガンもまた付き纏います。
まとめると、議論は起こるでしょうが、 最終的に一般へフィードバックされることは必然です。 遺伝子組み換え食品の市場流入が結局合法化されたように。 私に両者の違いは何も見えません。
極論からスタートしてみました。 現象を分析する際に、極端な状況を想定してみることは よく使われる手法です。両極端を考えることで、グレイゾーンの 推測をする、スタンダードテクニックです。
ベンサムの「最大多数の最大幸福」という、倫理の規範があります。 内容は、集団を構成する各要素の幸福度を最大化することが、 善であるというものです。
そして、果たしてこの新しい移植臓器の技術がベンサムのいう 最大多数の最大幸福を実現してくれるのでしょうか?
実際に技術開発に従事してしまうと、生み出したものがどういう影響を 現実社会に与えてしまうのかまで詳細に調べることは難しいと思います。 そして、その技術の基盤となる理学は、応用面までカバーした上で、 研究がなされているのでしょうか?
倫理というものが「善」を規定するものならば、別の「善」との 対立は避けられないような気がします。宗教や政府プロパガンダ、 そういったものを包括できる規範がないものか、と駒場のときから 考えてきましたが、結論は出ていません。自分が正しいと思ったものが 将来的に10年後20年後も正しさを保てるかどうか、 そこまで考えるとなにもできなくなってしまう気がします。 でも、自分が正しいと思ったことを実行するしかないと思います。
KKさんの意見のうち,最終的に異種間臓器移植が実施されるだろうという見方には、大体同意いたします。 しかしながら、その過程において大きな反発・反感があることも容易に想像されます.生命倫理というものが唱えられるのは,反発・反感のあり方を明らかにし,不要な反感をさけ、あるいは避けられない別の「善」との対立については、軋轢をなるべく小さくするためだと考えています. あくまでぼく個人の意見ではありますが,生命倫理というものは、普遍的な「善」を構築するのが目的なのではなく,議論する過程で他人の価値観を知っておくこと(感情論も含めて)が重要だと考えます. というわけで,ぼくが最初に聞きたかったのは、異種間臓器移植というものが一般にどの程度受け入れられているのかということだったんですよ。
不要な反感を避けるための情報開示や、軋轢を小さくするための 努力はなされるべきでしょう。
「一般」が何を指すのかが、こちらには明確でない上、 アンケート調査などによって調べる以外にデータを提示することは 難しいと思います。反発が予想される、程度ではいかがでしょうか?
東大文IIIの友人と、生命倫理と分子生物学について話してみた。 曰く、「神の領域には手を出すべきではない」とのこと。 具体的には形質転換さえ行うべきではないといいたいらしい。 ある特殊例ですが、参考までに。
そういう観念が有り得ることは理解できます。しかし何を持って「神の領域」とするのかは時代や文化によって大きく変わってきています。例えば、疫病の治療ですら、古代日本では「祈祷師」の扱う「神の領域」だったのではありませんか? 既に我々は、かつての「神の領域」の多くを侵してきました。もし、それを認めた上でなお「神の領域」を考えるのであれば、新しい基準をもって「神の領域」を指定する必要があると思います。 もちろん、それとは別の立場として、今まで(最も広い意味での)「神の領域」を侵してきた人の営為を、全て否定するという立場はあってもいいわけですが。